風のトポスノート532

 

相対性の陥穽


2005.1.3

 

聴くに堪えない音楽がある。
しかしそれを好む人もいて、
往々にしてそういう人たちは
ぼくのような人間よりもたくさんいたりする。
 
「要は、価値は相対的なのだ。」
 
そう言ってしまうことはとてもわかりやすいし、
ある種の価値観については、相対的な見方をしたほうが
適切な場合のほうが多かったりもする。
 
学生の頃、ぼくは相対的なものの見方を好んでいた。
(ぼくはかなり好き嫌いの激しいほうだと思うのだけれど、
だからこそそれを保留付きで肯定したかったところも多い)
そして「相対主義に陥ってしまう」という批判に対して、
価値観を絶対化したがると憤っているところがあった。
実際、固定的な価値観はただの因習に過ぎないことも多く、
そんな価値観を絶対化されるのはたまったものではない。
 
とはいえ、価値は相対的なところが多いかもしれないけれど、
あらゆるものが相対的だということにはならないだろうとも思う。
 
私とあなたが互いに動いているとして、
私が動こうがあなたが動こうが、相対的に見ると同じことなのだ。
というような相対主義には少なくとも注意が必要だろう。
 
あらゆるものを相対的に見てしまうということは、
ある種世界そのものを偶然の産物としてとらえてしまうことにもつながる。
即物的ということにも容易につながる。
そしてある種の叡智に対して鈍感になってしまう。
愛にさえも。
 
私があなたを愛するということ。
そのことさえも「意味」をもったものではなくなってしまう。
そして私があなたを愛そうが、
あなたが私を愛そうが、相対的なのだ。
というような馬鹿げた態度にさえなりかねない。
 
なぜ私が存在し、あなたが存在し、
そして世界が存在しているのか。
そのことは決して「相対的」ではない。
そのありようは絶対的であるとはいえないだろうし、
そのとらえ方や価値観は相対的でありえるかもしれないが。
 
しかし、だからといって、いや、だからこそ、
ある種の価値観を絶対的なもののようにプロパガンダし
そうでないあり方を集団的な権力で排斥しようとする向きには
常に細心の注意を向けなければならないだろう。
「私は正義だ!」という限りなく愚かな人間原理のようなものに対しては、
「私はあなたの物語のなかには存在しない!」と断固として主張する必要がある。
 


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