風のトポスノート530

 

なにげに


2004.12.13

 

このところ「なにげに」という表現を耳にすることが多くなった。
これは「なにげない」の「ない」がとれて
それが副詞的に独立して使われるようになったもののようだが、
最初は方言で用いられてきた「〜げ」がもとになっているらしい。
 
このところ、周囲でも使われることが多くなり気になったので調べてみると
次のホームページで秋月高太郎という言語学者による説明があった。
 
秋月高太郎「サブカルチャー言語学」ホームページより
「少年・少女マンガにみる「〜げ」の成立と用法」
 http://www.ifnet.or.jp/~akizuki/sublingsiron/nanige.html
 
それによると、この「なにげに」「さりげに」「よさげ」などの表現が
TVコマーシャルやマンガの登場人物のセリフなどで登場するようになったのは
1999年の初め頃からのことらしい。
この用法は、「かわいげ」「あやしげ」「ものほしげ」のような
標準語において用いられものとは異なった「〜げ」だということである。
 
上記の記述から少し説明を引用しておきたい。
 
	 「なにげに」は、形容詞「なにげない」から語尾の「ない」を取り去り、
	形容動詞連用形語尾の「に」を付加したものと考えられる。筆者は「なに
	げに」の成立には二段階のプロセスがあると考えている。第一段階は「な
	にげなく」から語尾の「ない」が取り去られ、「なにげ」が述語名詞のよ
	うに用いられる段階である。まだ実例を発見できていないが、1998年以
	前に、東京のストリート系の若者の間で「〜ってなにげじゃん」というよ
	うな言い方がされていたようである。このような使用を経て「なにげ」は
	「なにげなく」と同じ意味の状態名詞として定着していった。第二段階は、
	状態名詞としての「なにげ」に形容動詞活用語尾の「に」が付加され連用
	修飾語(副詞)として用いられる段階である。1998年あたり(これは
	「なにげ」が全国に広がった時期)から、「なにげ」はもっぱら「なにげ
	に」という形で連用修飾語として用いられるようになり、述語としての用
	法は廃れてしまったようである。
 
では、この「なにげに」はどういう意味をもっているのだろうか。
 
	これらの用例の「なにげに」は、他人や世間一般には気づかれることなし
	に、という意味である。「なにげに」が広まった理由の一つとして、この
	ような価値観が今の多くの若者に共有されているということがあげられよ
	う。つまり、70年代のスポ根マンガやアニメのように、汗をかいて血みど
	ろの努力するのは影で人知れずやることであり、たとえそのような努力し
	ていたとしても、人前ではその片鱗も感じさせないというのがイケてると
	いう価値観である。言い換えるなら「なにげ」は「ウザい」の反対語なの
	だ。実際、「なにげに」は、話し手が肯定的な評価をしているようなコン
	テクストで用いられている。
 
ぼくにはこの「なにげに」というのは
どうもまだ居心地が悪い表現なのだけれど、
ここではそういう「言葉の乱れ」的なものを云々したいわけではない。
そもそもぼくの使っている言葉もすでに相当に「乱れ」ているわけだし、
そういうなかでどのような視点からすれば
どのような「言語表現」が「正しい」とされているかについて
できれば知っておいたほうがいいとは思っている、というくらいのものである。
言葉はそもそも常に変化の途上にあるものなので、
どの時点でどの観点で共時的に切り取って
正しい表現とするかそうでない表現とするかが
社会的に規定されているだけのことだともいえるのだから。
それよりも重要なのは、言葉における論理性を欠かないようにしたい
ということだと思っている。
 
それはともかく、「なにげに」。
この表現がよく使われるようになったのは、
やはりそこに「実用的な価値」があるということなのだろう。
つまり、ある種の内容をうまく表現できるということ。
それはすでに「なにげなく」の省略形ではない。
「なにげに」ではなくては表現できない内容がある。
上記引用にもあるように、それは「ウザい」の反対語とある。
 
「ウザい」が話し手の否定的な評価をしているコンテクストで用いられるのに対して、
「なにげに」は肯定的なところで用いられる。
 
ぼくの語感でいえば、「ウザい」というのは
「わざとらしい」という意味も含んでいるように感じる。
「わざとらしい」から「うっとうしい」。
エゴイスティックなものへの嫌悪感とでもいうか。
(しかし「ウザい」は十分にエゴイスティックな感じの表現なんだけれど。
自分のエゴイスティックなものを見ないようにして
ひとのあれこれを感覚的にとらえる表現というのはよくある)
 
それに対して「なにげに」というのは、
あるしゅ「自然(じねん)」のような響きもそこに持ちながら、
エゴを超えたある種のさわかやさを感じることが
そのベースにあるということなのかもしれない。
日本人の「自然(じねん)」好みが
不思議に姿を表しているということもいえるのかもしれない。
 
こういう言語の変化については、
肯定ー否定という観点ではなく、
その変化の背景を見ていくと何かが見えてくるところがあるように思う。
とはいえ、言語というのはやはり規範性が強いところがあって、
そのまま受容できないところもあったりもするのだが・・・(^^;。
 


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