ある朝私は、一匹の蝿の、ぶーんという羽音で突然目が覚めた。 そして不意に、「私がいる」ことに驚いた。まるで、天井から落ち てきたナイフのように、素早く身につきささった恐ろしい直観。あ れは確かに、蝿が知らせてくれた、私というものの存在のようであ る。 普段の私は、どこという空間の衣、いつという時間の衣、誰とい う名前の衣、いくつという年齢の衣、どこで生まれ、何が好きか… というような、様様な経歴や記憶、嗜好の衣をはおっている。幾重 にも、属性の衣を着込んでいるのである。だから、あの、蝿によっ て知らされた「私」は、私自身にも痛いと感じられるような、すべ ての衣をはぎとった丸裸の私。誰でもなく、どこでもない、いつで もない時間のなかにいた、「私」なのだ。 (・・・) 私はこう考える、私はこう思う、というときのちっぽけな私。そん な自我の縛りから解放されたこの『私』の領域。私の、あなたの、 彼女の、という所有格もなく、小池昌代というけちな固有名詞も抜 け落ちたこの場所に、書くことによって、静かに降りていけたらと 思う。 (小池昌代『屋上への誘惑』岩波書店/2001.3.7発行/P118-125) この世界で、「私」を生きていると その「私」のペルソナ性を忘れてしまうことが多い。 ペルソナは仮面であるが「私」を「私」として成立させるためには 欠かすことのできない性質でもある。 つまり、その仮面を剥がして「本当の私」とやらをのぞき込もうとしても、 その仮面の向こうには深淵が広がっているだけになる。 あるいは「のっぺらぼう」の妖怪である。 「こんな顔かい」といってふりかえるお化け。 この地上に生まれることによって得ることのできたペルソナである「私」。 しかしその「私」というペルソナは同時に それによって可能になった『私』(その私を『』で表現しよう)への回路でもある。 この地上というきわめて魔術的な場所は (そう、この地上という世界はすべてが魔術的にできているのだ) すべてがマーヤで、やがてはその魔法から解き放されることになるのだろうが、 その魔術によって『私』へつながっていく「私」も可能となる。 それを「自由」の可能性といってもいいのかもしれない。 ふつう生きていると、「私」は、 さまざまな「属性の衣を着込んで」生きていて そこで一喜一憂し喜怒哀楽を生きている。 損だ得だ、嬉しい悲しい、苦しい楽しいを生きている。 しかしそういう「私」がときに『私』へとつながるときがある。 想念として「考える」とか「思う」というのではなく、 純粋な「思考」がなされるときもそうである。 そこで可能になる『私』は、 「私」というペルソナによって縛られてはいない。 「私」というペルソナを持ちながら 同時にそれによって/それゆえに『私』である存在となっている。 自我が自らを定立するというのもそういうことでもあるが、 そこにおいては、この地上における 魔術的なまでの不思議なプロセスが、自然界を含めて存在せしめられている。 そのときに深い闇のような存在領域に 「私」はみずからを消し込んでしまいかねないのだが、 そうい樹海のような迷路の闇の深みのなかで 『私』は静かに開かれてゆく必要があるのかもしれない。 そうすることによって、「自然」は「自然」である秘密を 開示してゆくというプロセスをも含み込んだ存在として 解放されてゆくということなのかもしれないのだから。 |
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