風のトポスノート528

 

占い


2004.12.5

 

細木数子の出るテレビ番組を先日から何度か見ている。
まるで大天狗さんがほかの烏天狗さん方を叱っているような
そんなシーンが見られてけっこう楽しめる。
 
とくにおもしろいのが、
すぐに「あなたはこうすれば巨万の富を築ける」とかいう決めゼリフ。
細木数子の最大評価基準のひとつが
「巨万の富を築ける」かどうかにあるらしいのが微笑ましい。
おそらくそこらへんに「占い」のもつひとつのカタチがあるのだろう。
「占い」の目的としてそういうものを求めることが
あまりにポピュラーだということでもある。
 
それはともかく、もちろん「占い」は、ある種の運勢の型を
現在の態度決定によって形成される地図として見せるものでもあり、
それはそれなりの認識形態であるとはいえる。
 
つまり、今あなたはこんな川を下っているのだけれど、
そのままその舟でくだっていくと
ここらへんにこういう危険があるから注意しなさい、云々ということ。
 
それはある種のカタチののぞき穴から可能性を見るということでもあるが
そのときに重要なのは、やはり特定の視点を絶対化しないということなのだと思う。
そして、運命を「宿命」ととらえるのではなく、
「立命」こそが重要な姿勢であるということである。
 
占いは現在の地平から見える「地図」のひとつではあるけれど、
決定稿の地図ではない。
量子物理学で「観測者問題」というのがあるが、
観測することで現実が作られていくという側面を等閑にすることはできない。
 
しかも、同じ「事実」は同じ「現実」を意味するわけではない
ということも重要なことである。
ある人にとっては絶望的に感じられることでも
それそのものが創造的なものである可能性さえある。
ある種の失敗、挫折故に開けてくるものもあれば、
ある種の成功、幸福が人を非創造的なものにさせることもある。
そして結果がすべてではなく、
常に生はプロセスそのものに意味があるということでもある。
 
ただ楽天的に生きるのは考えものかもしれないけれど、
要はどんなことでもそのプロセスを自分の養分にする!
という気概があるかどうかということがまずは重要なのだろう。
そしてすべては結局は自分の選択と創造の結果だととらえること。
 
そういう生において、「占い」は
あればよし、なくてもよし、ということになる。
おそらくそれでいいのだと思うのだけれど、
問題はそれを超えて「占い」がクローズアップされてしまうことにあるように思う。
大天狗さんの神さまはパフォーマンスが大好きのようで
それを余興として楽しむのはいいのだけれど
大切なのは「占い」そのものではないということだけは
押さえておかなければならないだろう。
 


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