かつて境界とは眼に見え、手で触れることのできる、疑う余地のない 自明なものと信じられていた。しかし、わたしたちの時代は、もはやあ らゆる境界の自明性が喪われたようにみえる。境界が溶けてゆく時代、 わたしたちの生の現場をそう名付けてもよい。 (…) あるいは、男/女・大人/子供・夜/昼そして想像/現実……を分か つ境界、いや、おそらくは境界という境界のすべてがいま曖昧に溶け去 ろうとしている。異界ないし他界という、超越的な彼岸がわたしたちの 日常の地平から根絶やしに逐われたとき、いっさいの境界が自明のもの として存在しつづけるための根拠もまた、潰えてしまったのかもしれな い。異界=他界という、差異の絶対的な指標の喪われた場所では、境界 はたえざる浮遊状態のなかに宙吊りされている。 (赤坂憲雄『境界の発生』P講談社学術文庫/13-14) 自分のなかにある境界について思い浮かべてみよう。 自明だと思っている境界、 そして自明ではない境界、自明ではなくなりつつある境界について。 今やスーパーも24時間化してしまっていることにも象徴されるように、 日々報道される事件にしても、 自明な境界が崩れてしまっているように思われるものが増えてきている。 それまでは妄想と現実の世界がなんとか境界を保っていたものが、 その境界が崩れ、妄想の結果のような事件が起こる。 ヴァーチャルな世界とリアルの世界の境界が崩れているのかもしれない。 それを道徳が失われたためだと考える人もいて、 そういう人たちは道徳論に忙しい。 道徳教育をしなければならないという類である。 「○○○らしくあれ」ということも強調される。 医療でいえば、対症療法的な考え方であるともいえる。 熱を出したら熱を下げるための薬を投与する。 しかしそこで熱をださなければならなかったものは ともすれば見過ごされてしまう。 今見過ごしてはならないものはいったい何なのだろう。 それはそれまで境界だと思っていたもの、 自分のなかで境界を境界たらしめていたものが いったい何なのかを注意深く見てみることがまず必要なのだろう。 霊的世界を否定してしまう傾向にしても、 その境界のひとつだし、 自分の心に生起していることを 安易に外界に投影しないということも境界のひとつ。 そうした作業を通じて、境界を自明のものにしないことが必要だが、 なければならない境界をみずからのうちで生み出すこともまた不可欠である。 正義を振りかざした戦争が行われてしまうのは 正義とそうでないものの境界を勝手につくって 正当化してしまうためでもあるが、 そういう境界には注意深くなければならない。 必要なのはそういう境界ではない。 「自由の哲学」が基礎にあるような 自由ゆえの境界が必要なのではないだろうか。 |
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