ある立場、理念、思想、もしくは気分を肯定したり、逆に否定したり するためにさまざまな歴史的事実をかき集めて、「証明」をし、ある いは「反証」をあげることが、歴史なのか。 そういう賑わいが、ある程度の意義を持っていることを私は否定しな い。でも、それは、あくまで門前の喧騒であって、歴史の山門をくぐ ってはいない。 一言で云えば、持続の感覚である。今、ここにある私たちが、長い過 去の集積として今あり、その過去から継受したものを未来へと伝えて いく責任感、というよりも祈りを醸成するもの。今日、一日、一日を 生きていくことの、手ごたえを得ること。その手ごたえが把めた時に、 過去は私たちにとっての現在になるだろう。 この物語は、知識や見通しとしての歴史ではなく、今日の日々に埋も れつつも息づいている、「過去」の感触を、持続の感覚を取り戻す試 みである。 (福田和也『地ひらく/石原莞爾』上 文春文庫2004.9.10発行/P14-15) 今自分がここにいること。 それを確かめるための生きた「物語」が必要である。 その「物語」を「持続」のなかで歴史的にとらえようとするのが おそらくは保守思想の基本でもあるようにぼくは思っている。 しかし当然のごとくその「物語」の多くは 近代以降、明治以降から戦後以降につくられたものである というのはその保守思想そのものが認めていることにほかならない。 つまり、人は語らずに=騙らずに生きていけない存在で そのための「過去」を必要としているということである。 しかしその「持続の感覚」というのは とてもきわどいところで存立していて そのきわどさが揺らぐことで さまざざまなものがそこから 亡霊のように飛び出してくることにもなる。 自分の出自を問題にする、ルーツ探しというのもそのひとつである。 地縁、血縁等の影響は多かれ少なかれ誰にでもあるわけだけれど それがその人の本質であるとはかぎらない。 それにも関わらず、その「持続の感覚」はともすれば 「歴史」のなかに限定されてしまうことが多いように見える。 そういう意味でその「持続の感覚」は 仮構の足場に頼り切ってそこを離れることのできないものなのである。 それに対して、神秘学的な視点というのは、 その人を単にその生活の文脈だけに限定しない。 シュタイナーの『いかにして超感覚的世界の認識を得るか』に 「霊界参入」における「水の試練」とかいうのがでてくるが、 そこでの「試練」というのは、ある意味で、 そうした「持続の感覚」を積極的に断つことが要求される。 底に足が届かない水中で、どこにも足場のないままに 完全な確かさを得るようにならなければならないという試練である。 それは「故郷喪失」の必要性ということにも通じてくる。 もちろんそれは「持続の感覚」や「故郷」を 捨て去ってしまうということではない。 むしろそれをより深めるということでもある。 そのとき「過去」はもっと多次元的な何かとして そして未来の展開の可能性でもある「今」として現出してくる。 もちろんそれは、自分の前世がどうだというようなものとも無縁である。 それもまた今この自分以外のものでもないからである。 |
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