風のトポスノート520

 

権威依存シンドローム


2004.10.11

 

	養老
	教科書検定というものは、反対すれば反対するだけ、教科書というものは
	正しくなければならないものだという印象が強まってしまいます。これは、
	僕の言うこととまったく逆なのです。教科書裁判の影響は大きいと思いま
	す。家永さんは文部省が検定することに、まともに反対しました。その両
	者の喧嘩のおかげで、なんとなく、教科書というものは正しくなければい
	けないんだという庶民感情ができてきました。それが大きな弊害だと思い
	ます。
	(・・・)
	森
	「この教科書のここがおかしい」と、いろいろと批判するのは別に悪いこ
	とだとは思いません。ただ、矛盾を感じるのは、どんどん教科書運動をす
	ればするほど、教科書依存体質が増長していくというところです。
	(…)
	僕流の「エリート」の定義は、自分で責任をとることです。つまり、教科
	書でいうならば、自分で選んだ本を自分で読むことです。自分で好きなこ
	とをしたら、自分で責任をとるというのがエリートの条件であり、旧制高
	校というのは、その意味ではたしかにエリートだったと思います。
	ところが、戦後教育の大衆化というのは、その意味でエリートでなくする
	ことだと思うのです。教科書も含め、すべてを学校で面倒をみるようにな
	りました。僕が貧乏学生だった頃に比べれば、いまの子どもたちは金持ち
	だし、本も安く手に入れやすい。図書館など、本を与えてくれる制度も整
	っています。ですから、文化へのアクセスする能力、条件は全部整ってい
	るのに、それを使っていないのではないかと思うのです。今の日本の経済
	的・文化的条件だったら、もっとエリートになっていいと思うのですが、
	逆にエリートを消滅させる方向へ導いています。
	そこに関係すると思いますが、僕が教科書批判にいまひとつ乗れないのは、
	「教科書ぐらい悪くても、いい本が町にいっぱいあるやないか」という思
	いがあるからです。結局、「たかが教科書」という印象が、僕のなかから
	消えません。
	(養老孟司・森毅『寄り道して考える』PHP文庫/P127-133)
 
教科書なしでも生きていけるし、困るはずもない、
というのは、教科書をあまり読まないで
それを本気で受け取ったことのないぼくなどのような半ば落ちこぼれには
言わずもがなのことでもあるのだろうけれど、
そうでない、生真面目な人たちには、
やはり教科書信仰のようなものがあるのかもしれない。
 
「教科書運動をすればするほど、教科書依存体質が増長していく」という指摘には
とてもうなずけるものがある。
教科書運動というのは、そういう意味でいえば、
結局のところ、教科書を権威化していく運動でもあるわけである。
教科書が権威になればなるほど、その記述にますますこだわってしまうという
悪循環がそこに生じてくることになる。
困ったことである。
 
教科書にかぎらず、「権威化」というのはそういう悪循環を生じさせやすいもので、
あるものが、「権威」としてどーんと看板としてだされてしまうと、
その看板を信じないといけないように思いこまされてしまい、
というか、そもそもなにかを「これが正しい」という「人参」のようなものを
求めているような人たちにとって、それは渡りに船的な状態になってしまう。
そうして、「まあ、適当でええやないか」という気分は「ヒコクミン」的に断罪され
みんなが同じ「正しさ」の旗を掲げて行進してしまうことになる。
そうして、それがあるとき間違っていたと決定的にわかったとき、
今度はそうした人たちは「騙された」という被害者にもなることになる。
 
また、権威に反対するだけのアンチにしても、
悪くするとそのアンチが権威を深めていくということにもなる。
「賛成の反対」ということによる「賛成」の権威化も生じるわけだし、
もちろん「反対」の権威化も同時に生じる可能性もある。
こうした運動は、コインの裏表的なところがあるわけであって、
コインを裏返してみてもコインそのものから離れることはできない。
重要なのは、コインを少し「おまえは、コインやないか!」と
ちょいとしらけて見ることのできる観点をとれるということなのではないだろうか。
 
歴史をちょいと見ただけでわかりそうなことが
少し別のネタでお色直し的にでてきたら
またぞろ同じようなことになってしまうのは、やはり悲しいものだ。
そういうのは、やはりどうしようもないビョーキではないかと思うのだけれど、
おそらくビョーキでないとやっていけないくらい
この世の中で生きるのはシンドイのかもしれないなあとか思ってしまう。
しかしシンドイならば、「まあ、ええやないか」と
テキトーにやっていけばいいのではないかと思うのは
ぼくのような落ちこぼれだけなのかもしれない。
「正しさ」や「べき」や「権威」といった
教科書的なものが好きな人のほうがたぶんずっと多いのだろう。
 
上記の引用にもあるけれど、今や町には
いろんな参考にできるものなどはたくさんあるし
こうしてインターネットなども利用できる。
しかもどう考えてもかつてよりはずっと金銭的にも恵まれている。
少なくとも食うものがなくて餓死するような状況はきわめて少ない。
やはり、「権威」を「与えてもらう」というのが好きな人が
どれほど多いかというのが現状だということなのだろう。


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