風のトポスノート519

 

軍隊の世代を親にもつ団塊の世代


2004.09.24

 

        (養老)
         団塊の世代は波とともに流された世代だ、と森さんがおっしゃいました
        が、まったく同感です。そして、僕の世代とも共通点も、そこにあるのだ
        と改めて実感しました。僕も上と下の世代の狭間で過ごした世代ですから、
        その両方から脅かされました。上の世代は戦争をやって、下の世代はとい
        えば紛争で、こちらはいいように小突きまわされて、もうよれよれです。
         団塊の世代が、どうしてそうなってしまったのかといえば、先程のこと
        を繰り返すようですが、僕は戦時中の「親の型」が無意識にうつっている
        のだろうとおもいます。森さんが、先程軍隊文化の普及とおっしゃったけ
        れど、まさにそれを無意識に受け継いでいました。陸軍の型というのは、
        ある意味でずいぶんとしっかりした型だったのだと思います。それで、な
        かなかその型が抜けないのでしょう。
         これはよくお話しすることなのですが、昭和二十四年に出された唐木順
        三氏の『型の喪失』という本の中で彼が最後に言っている結論は、日本人
        は明治からずっと型を壊してきたけれども、最後に型が残ったのは軍であ
        るということです。その軍が日本全体を引っ張ってこういうことになった
        と、終戦の反省を込めてそう書いてありました。僕は、これこそが真実で
        はないかと思うのです。その型が、無意識に再生産されたのが団塊の世代
        ではないのでしょうか。
         話は少しずれてしまうかもしれませんが、僕はこの話にたいへん興味が
        あって、もっと深刻な問題とつながっているのではないかと最近考えてい
        ます。型というのは何かというと、結局は首から下、つまり無意識であり、
        無意識の行動です。
        (…)
         それが一番最近まで来ると、今度はオウムになるんです。あれは、ヨー
        ガから入ったわけです。若い人がヨーガにドッと入ってくる。しかし首か
        ら下は無意識ですから、それが勝手に動いてしまったと考えています。結
        局は、首から上と下が、明治以来、うまくつながっていないような気がし
        ます。
        (養老孟司・森毅『寄り道して考える』PHP文庫/P120-122)
 
世代論というのは限定してとらえる必要があるけれど、
大きな流れを見る上では必要な部分がある。
 
軍隊の世代を親にもつ団塊の世代・・・というのは
ぼくにも納得がいくところが多い。
どちらも集団になりやすいという意味でも似ている。
 
ちなみにぼくの世代といえば、
団塊の世代を見てシラケてしまった世代だといえるかもしれない。
だからシラケ世代である。
少なくともぼくはある意味ずっとシラケて生きてきている。
だから「一致団結、頑張ろう」というのに対して拒否反応が出てくる。
平和運動のようなものにしても、それが「一致団結、頑張ろう」になると
どうも拒否反応のようなところがでてきたりする。
森毅さんや、養老猛さんの話を読んでいると
ほっとするのは、そういう「一致団結、頑張ろう」がないことである。
 
世の中、賛成の運動に対して反対の運動があって
ある部分バランスがとれていくところがあるので
反対の運動を否定的にだけとらえることはできないが、
できれば、どちらでもないという人たちがいたほうがほっとする。
もちろんどちらでもないというのは優柔不断だというのではなく、
ある種の無意識に対して意識を向けることの可能な姿勢だともいえる。
 
ところで、オウムの世代というのは、ニューエイジの世代ともいえるのかもしれないが、
ぼくの次の世代にあたるスパンなのかもしれない。
つまり、団塊の世代を親に持つ世代。
だからその「型」を無意識のうちに受け継いでいる・・・。
 
こういう「型」の継承というのは、
食生活などにもいえることなのかもしれない。
親の食生活というのは子どもにまともに深く影響を与えてしまう。
 
ファーストフードをあたりまえのようにして育っている親の子どもは
必然的にファーストフードを主食のようにして育つことになる。
夜中にファミレスなどで小さな子どもを連れた家族などを見かけるのも
あたりまえのような景色になっている。
そして夜中にコーラやジュースなどを飲んでいる。
観察していると、若い人たちは冷たい飲み物をガブガブ飲んでいることが多い。
こうしたこともその子どもの世代に確実に影響してくることになる。
 
今世の中で頻繁に起こり続けているさまざまな事件も、
さまざまなレベルでの影響の結果という部分も多いのだろう。
携帯電話を離せないというスタイルもそのひとつだし、
わけがわからず殺人を犯すというのもそのひとつ。
 
それらにたいして、「一致団結、頑張ろう」というのではなく、
なにか些細なことからでも何かできることがあればいいと思う。
大きな「型」の流れのようなものを押しとどめることは
むずかしいことなのかもしれないが、
少なくとも、そういうことを意識できるきっかけというのは
センサーさえちゃんとそれぞれが持っていれば得られる時代だとはいえる。
もちろん情報が多すぎて、けっきょくのところ情報の取捨選択が困難になり、
けっきょくは無意識のところで同じ様な群れを形成していく傾向は否定できない。
 
さて、無意識の「型」はこれからどうなっていくのだろうか。
少なくともぼくにしてみれば、軍隊的な型とは距離をとっていきたい、
というかできるだけ巻き込まれたくないものだと切に思っているのだけれど…。


■「風のトポスノート501-600」に戻る
■「思想・哲学・宗教」メニューに戻る
■神秘学遊戯団ホームページに戻る