風のトポスノート518

 

亡霊たちの変容へ


2004.08.24

 

         日本の野口みずきと坂本直子と土佐礼子の3人が、マラトンからアテネまでの
        コースを走った時、二つの敵と戦っていた。いまそこにいるラドクリフやヌデレ
        バという敵と、そこにはいない高橋尚子という敵と。
        ・・・
         その瞬間、野口はこの日の敵のすべてに勝つとともに、見えない敵の高橋尚子
        にも打ち勝った。そしてそれは、野口だけではなく、坂本や土佐を含めた日本の
        代表の3人が高橋を破った瞬間でもあったのだ。
        (沢木耕太郎「マルーシ通信」2004.8.24付朝日新聞)
 
沢木耕太郎のアテネオリンピック・ルポ「マルーシ通信」が面白い。
今回の女子マラソンで注目される必要があったのは、
確かに「そこにはいない高橋尚子という敵」でもあったのだろう。
日本人の多くが感じていたであろう「高橋だったら・・」という意識。
深夜のマラソンをぼくも最後まで見ていたのだけれど、
2時間半ほどのあいだにおりにふれて思っていたのはそのことだった。
 
「期待」というのは、こういうシチュエーションでは
過去からの亡霊をひきずってしまう。
前回のオリンピックで金メダルを獲得した高橋尚子という亡霊。
それは現実の高橋尚子ではすでになく、
日本人の多くのなかにある「高橋尚子」という亡霊のようなもの。
 
期待されすぎた選手がおそらく苦しむのは
そういう種類の亡霊のようなものなのだろう。
それは本人のこれまでの実績に対する期待という
本人そのものの亡霊でもあって、
むしろ本人の亡霊であるがゆえに影響もさらに大きくなる。
 
従って、北島選手のようにそれを推進力に変えられるような
ある種の力が必要とされることになる。
「勝つ!」「勝ちたい!」という力。
過去のさまざま亡霊たちを変容させる力。
 
常に勝敗が絡むスポーツというのは、
姿を変えた戦争でもあるのだけれど、
とくにオリンピックは民族主義間のそれでもあって、
「国民」たちのさまざまな期待という重圧のなかで
選手達は戦っていかなければならない。
「国」という亡霊もそこには絡んでいる。
高校野球が出身地意識や郷土意識と絡むように。
 
しかしそういう意味で、オリンピックは
戦争へ向けられるエネルギーの
必要悪的な意義をもっているといえるのかもしれない。
こうした「国民」たちの意識が向けられる
スポーツという疑似戦争がなかったとしたら
地球は今以上に火だるまになっていただろうと思う。
 
オリンピックはエンターテインメントとしても面白く、
そうしたさまざまなことを集中的に考えることのできる
貴重な場だともいえるかもしれないが、
できることなら、戦うという意識が
いつか別の形に変容していくことを願ってやまない。
そのときに、さまざまな亡霊達も
やっと安んじることができるのかもしれない。
 


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