風のトポスノート517

 

中心と周縁の構図の陥穽


2004.07.30

 

        赤坂 定住と漂白という問いの立て方にこだわりますが、あきらかに
        文献史学というのは、定住中心の思考にならざるをえないわけですよ。
        文字の資料を残すということは、定住を前提としてしか成り立たない。
        漂白もしくは移動している人たちは、紙に記される文字ではなくて、話
        し言葉に依拠し、口承伝承の世界というものを絶対原理にしているわけ
        ですよ。
        (…)
         だから、ここでわれわれはもう一度、網野さんが力業で掘り起こした
        世界を、中心と周縁の構図のなかに落とし込んで去勢する動きに対して
        抵抗しなければいけないということです。だからこそ定住が先にあって、
        漂白が後からやって来るというのではなくて、最初にすでに定住と漂白
        がセットで対をなして発生するという、この立場を再確認しておきたい
     のです。マージナルと名づけられた瞬間に、心地よく去勢されていると
     考えた方がいい。けれども、網野さんがやろうとしたのは、ぜったいそ
        ういうことではなくて、そうした知をめぐる中心と周縁の政治学そのも
        のを壊すことであり、しかも文献史料の量や質における圧倒的な歪みの
        なかで、それをやろうとしたということだと思いますね。
        (中沢新一・赤坂典雄『網野善彦を継ぐ。』講談社/P66-68)
 
まず、中心をつくる発想がある。
そしてそれだけが正しくてそれ以外はないことにされてしまうか、
正しくないということにされてしまう。
 
そのとき中心でないものは闇になり
その闇はまるで無意識のような働きをする。
その闇はつねに中心を脅かす。
ゆえに闇は執拗に排除されることになる。
したがって闇はあくまでも抵抗するか
あるいは中心になってその存在を変化させるしかない。
 
さらに、中心のほかに周縁を認める発想がある。
中心は中心としてあるのだけれど
周縁の重要性もまた認める。
確かにあるし、正しくないのでもないが周縁である。
 
そのとき周縁がその位置づけを正しく評価されたという考え方がある。
決して排除されることなくその存在を認められる。
周縁はもう闇ではないのだ。
光の下に照らされている。
周縁は闇から周縁へと位置づけられる。
しかし、周縁はみずからを周縁としたことで虚勢されてしまう。
中心も周縁を否定はしないで認めているのだからそれでよしとする。
中央と地方という発想もそれに近いだろうか。
東京が中央でそれ以外が地方だという慣用的な発想もあるが
みずからを中央と見るものもみずからを地方と見るものも
どちらも新たに巧妙な錯誤のなかに陥っていることに気付きにくい。
 
その中心ー周縁という固定的な思考方法そのものを
とらえなおしてみる必要があるのだろう。
ちちらかを中心とし片方を周縁とする思考法を去る。
要素Aと要素Bがありどちらかを中心と置き
もう片方を周縁と位置づけることをやめる、
ある意味で中心はないとする。
中心は名づけることができない。
中心は「空」である。
中心の周辺部をめぐる要素間の相互作用がある。
 
私とあなたがいて相互作用がある。
けれどその中心があるのではないのと同じである。
しかし人はすぐにどちらかを中心に置きたがる。
どこか中心をつくってそれを権威にしたりもする。
しかしその中心をこそ疑ってみる必要があるのではないか。
そうすることで、私とあなたの「間」にあるであろう
「中心」のことが感じ取られもするのかもしれないから。
 
重要なのは決してなづけられることのない
永遠のダイナミズムでもあり「存在」でもあるかもしれない
そんな「中心」なのだから。
中なる道も決してこうだと名付けることのできないかもしれない
そんなあり方に似ているのかもしれない。
 
世の中で「力」を持つためには
その「中心」を偽装して「これが中心だ」ということが必要ば場合が多く、
多くの人もそれを望んでいたりもするのかもしれないが、
その陥穽こそを危険に思う感性が必要なのだと思う。


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