*** 2017年1月5日 新春の遊行寺 ***

1.惣門 2.本堂1 3.手水舎&
一遍上人像
4.本堂2 5.鐘楼 6.放生池1 7.信徒会館 8.御番方1
9.御番方2 10.御番方より 11.放生池2 12.観音像 13.カルガモ1 14.カルガモ2 15.カルガモ3 16.ハクモクレン
17.中雀門内側 18.中雀門外側 19.遊行寺の坂 20.酒井忠重逆修
六地蔵&五輪塔
21.本堂3 22.白梅1 23.白梅2 24.境川遊歩道

 1月5日(木)、新年が明けて早や4日が経ち、参拝客で賑わった社寺も静寂を取り戻したと思われたので、久々に境川遊歩道を通って、"遊行寺"に向かうことにする。本日は雲一つない晴天ではあるが、風が強いせいか、ここを散歩する人々は殆ど見かけられない。代わりに、"ローディー(ロードバイクに乗る人)"が猛烈なスピードですり抜けていく。残念ながら、ここ数年で、長閑な遊歩道も彼等の遊び場と化してしまったようである。昨年は、境川遊水地公園手前で、ローディー同士の衝突事故を目撃したが、歩行者が巻き込まれないことを祈るばかりである。
 14:10、1時間20分程で"遊行寺"に到着する。惣門の木版には"清浄光寺"とあり、此方が正式名であることが分かる。惣門を潜り、緩やかな四十八段の石段を登っていくと、眼前に壮大な本堂が現れる。早速本堂で参拝したのち、お守りを買い求めて引き返そうとしたが、何となく後ろ髪を引かれる思いがしたので、暫し境内を散策することにする。"放生池"周辺の景色をポケデジで撮り終え、一昨日まで箱根駅伝で賑わった"遊行寺の坂"に回ると、当日の幟や旗は既に撤去され、ひっそりとしている。ここで、ふと同姓の酒井・・なる著名人の墓の存在が思い浮かんだので、初めて探訪してみることにする。坂沿いの墓苑に入ると、暫くして、六体の地蔵の傍に巨大な五輪塔が現れる。その脇の立て看板には、"酒井忠重逆修六地蔵供養塔"とあり、忠重が生前に、六地蔵と自身の五輪塔(墓)を寄進したことが分かる。また、この規模からして、さぞかし有力な一族に思えるが、周辺には何故か親族と思しき墓は見当たらない。更に、名前に"忠"が付くことからも、徳川四天王筆頭"酒井忠次"他を輩出した尾張酒井家の系統とも考えられる。帰宅後、改めてネット上で検索したところ、遊行寺HPには、『忠重は、萬治3年(1660年)六地蔵供養塔を建立しており、翌年には万日堂をも寄進しています。遊行三十九代慈光上人は羽州最上の出身であることから、忠重との関係は深いものがあったのではないでしょうか。・・・』とあり、今一つ素性がはっきりしない。一方、Wikipediaには、庄内藩初代藩主酒井忠勝の二番目の弟に当たり、白岩領8000石を与えられたものの、酷政を敷いたせいで一揆が起きて改易となり、藩主忠勝にお預けになったとある。更にその4年後には、嫡男九八郎(忠広)を藩主家の後嗣にしようとするお家乗っ取り騒動も起こしており、中々策謀に闌けた人物であったようである。なお、この事件に関して、同郷の作家・藤沢周平が、小説"長門守の陰謀"に仕立てており、その顛末と共に事件後についても、『兄の忠勝の遺言だと二万両(約20億円)を吹きかけたとき、後継ぎの忠当は(承応元年(1652年)に)おとなしく金を出したが、同時にこれを以って酒井家と義絶せよという条件を突きつけた。・・・』と記している。年代を追ってみても、この時せしめた2万両の一部が、長門守(忠重)の墓所建立他に充てられたのは間違いなかろう。ただ最後は、寛文六年(1666年)九月二十四日、蟄居先の下総市川にて、何者かに暗殺されており、作者は庄内藩から差し向けられた刺客説を取っている。実際に、遊行寺には忠重以外に酒井一族の墓が見当たらないことからも、義絶されたのは事実であり、暗殺説もにわかに真実味を帯びてくる。なお、藤沢周平のペンネームについては、Wikipediaには、出生地である鶴岡市藤沢地区に由来するとあり、忠重が眠る藤沢市とは縁も所縁もないことになるが、不思議な名前の一致ではある。また私自身も、庄内地方の酒井家とは全く繋がりはないが、ここ1年余り藤沢作品に親しんできたせいで、最後に作者から、同姓他家の歴史を知る機会を与えて頂いたことになる。これも何かのご縁ということであろうか。ここから、境川遊歩道を通って自宅に戻る。

★活動量計データ(上り階段数:420,早歩き歩数:18,989,総歩数:21,811,歩行距離:17.2km,活動カロリー:1,148kcal,一日総消費カロリー:2,867kcal,脂肪燃焼量:69.8g) 

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