*** 2013年2月22日 水戸 ***

1.渡り鳥
(千波湖)
2.雌雄のオナガガモ1
(千波湖)
3.雌雄のオナガガモ2
(千波湖)
4.雄のオナガガモ1
(千波湖)
5.コクチョウ1
(千波湖周辺)
6.コクチョウ2
(千波湖周辺)
7.コクチョウ3
(千波湖周辺)
8.コクチョウ4
(千波湖周辺)
9.コクチョウ5
(千波湖周辺)
10.オオバン
(千波湖)
11.コブハクチョウ1
(千波湖)
12.コブハクチョウ2
(千波湖)
13.千波湖の噴水1 14.偕楽園臨時駅 15.紅梅1
(偕楽園手前)
16.大日本史完成
の地の碑
17.紅梅2
(偕楽園)
18.紅梅3
(偕楽園)
19.紅梅4
(偕楽園)
20.好文亭1
(偕楽園)
21.白梅1
(偕楽園)
22.白梅2
(偕楽園)
23.紅梅5
(偕楽園)
24.紅梅6
(偕楽園)
25.梅むすめ1 26.梅むすめ2 27.紅梅7
(偕楽園)
28.紅梅8
(偕楽園)
29.紅梅9
(偕楽園)
30.好文亭表門
31.好文亭入口にて 32.好文亭内の庭園1 33.好文亭内の廊下 34.好文亭内の花頭窓 35.好文亭内の庭園2 36.好文亭内の窓 37.好文亭内の庭園3 38.紅梅10
(好文亭)
39.楽寿楼からの
眺め1
40.楽寿楼からの
眺め2
41.こけらぶき屋根
の文様1
42.こけらぶき屋根
の文様2
43.好文亭の一廓 44.多行松1
(偕楽園)
45.多行松2
(偕楽園)
46.多行松3
(偕楽園)
47.多行松4
(偕楽園)
48.好文亭遠望1
(偕楽園)
49.好文亭遠望2
(偕楽園)
50.千波湖の噴水2
(偕楽園)
51.常盤神社 52.和製大砲
(義烈館)
53.雄のオナガガモ2
(千波湖周辺)
54.雄のオナガガモ3
(千波湖周辺)
55.D51前の
大山さん&小林君
56.D51全景 57.D51の運転室 58.雪の桜田門
オープンセット
59.雪の武家屋敷
オープンセット1
60.雪の武家屋敷
オープンセット2
61.雪の武家屋敷
オープンセット3
62.松の廊下
オープンセット
63.弘道館正門 64.左近桜
(弘道館)
65.梅林
(弘道館)
66.紅梅11
(弘道館)
67.紅梅12
(弘道館)
68.紅梅13
(弘道館)
69.復旧中の旧掘斜面 70.旧水戸城薬医門

 2013年2月22日(金)、昨晩は我々の貸し切り状態でゆっくり休めたせいか、今朝は爽やかな目覚めである。ただお二人は未だ熟睡中だったため、こっそりと寝床を抜け出し、朝風呂としゃれこむ。だが部屋を出たところ、バラを活けた水盤が完全に凍っている。やはり昨日の予報通り、−4℃程度まで下がったのであろう。身震いする中、早速湯船に向かうと、昨日のものと思しきバラ数十輪が漂っている。手に取ってみると、まだ生気を保っており、ほのかな香りも感じられる。笠間は温泉が出ないため、代わりにバラを浮かべて、アロマ効果を狙ったのであろうが、美的効果も相まって、脳の癒し(リラックス)に繋がるのではなかろうか。
 8:40、割烹旅館"城山"のチェックアウトを済ませ、近くの"笠間稲荷神社"に向かう。当社は日本三大稲荷の一つで、年間350万人以上もの参拝者が訪れる人気のスポットとか。実際に大山さんも、ひたちなか市から、毎年初詣に訪れるとか。ただ、参道を拝殿に向かって進むと、根元で折れた鳥居の礎石が、そのまま放置されている。大山さんによると、周辺の山々で良質の花崗岩を産出することから、一の鳥居/二の鳥居共花崗岩製であり、それらが東日本大震災で倒壊した結果だとか。
拝殿で、母の病気治癒をお願いしたあと、水戸の"偕楽園"に向かう。
 9:50、偕楽園近くの千波湖畔に駐車したあと、"偕楽園"の方向に歩きはじめる。湖面には多くの水鳥が浮かんでおり、ズームアップすると"オナガガモ"であることが判かる。暫くすると、植え込みの間から、"コクチョウ"のつがいが突然飛び出てくる。餌付けされているせいか、近寄っても逃げようとしない。次に、"コブハクチョウ"を数ショット撮ったところ、その一枚に、水藻を啄ばむ白鳥の周辺が、油膜の縞模様で覆われているのが確認できる。野鳥のオアシスを守るためにも、水質浄化が急務である。ここから、JR常磐線の陸橋を渡って、"偕楽園"に向かう。恒例の"水戸の梅まつり"は、昨日から開催されているが、南側の紅梅が部分的に開花しただけで、観光客もまばらである。従って、被写体に事欠く状態であったが、園内を散策していると、艶やかな振袖姿の"梅むすめ(梅大使)"に出くわす。カメラを構えると、笑顔でポーズを取って下さる。何か得をしたような気分で"好文亭"に向かう。所で、入口で貰ったパンフレットによれば、"弘文"とは梅の異名で、晋の武帝の「学問に親しめば梅が開き、学問を廃すれば開かなかった。」という故事に由来するとか。蓋し名言であり、この考え方が、後に訪れる藩校"弘道潅"の教育にも繋がっているのであろう。亭内は多くの部屋で区切られ、夫々に見事な襖絵が描かれている。また、廊下の途中には"花頭窓"もあり、洒落た構成となっている。最上階の"楽寿楼"からは、庭園越しに千波湖が望める。当時斉昭も見た絶景というところか。ここから、"常盤神社","義烈館"を経て、オープンロケ地に向かう。ここは、映画"桜田門外ノ変"の襲撃シーンが撮影された場所で、雪の桜田門と周辺の武家屋敷が、略実物大で再現されている。大山さんによると、撮影後に取り壊わされる予定であったが、見学者が絶えないことから、そのまま展示館として残されたとか。桜田門のセット前まで来ると、周辺一帯はベージュ色の綿のようなもので覆われている。だが、デジカメ画像を再生してみると、それなりに雪らしく写っている。これは、目の錯覚を利用したのか、それとも撮影後3年以上たって、周辺の土と混じり合ってベージュ色に変色したのか、理由は定かでない。記念館には、映画のキャストの説明もあり、襲撃を指揮した"関鉄之助"役の大沢たかおが、何とも凛々しく見える。ただ、実際の"関鉄之助"は、事件後2年余りに渡って各地を逃亡したのち、最後は越後で捉えられ斬首となっている。襲撃に参加した他の17人の水戸浪士も、生き長らえた2名を除き、略同様の末路を辿っており、哀れと言う他はない。私自身は、このような暗殺を肯定するものではないが、彼等の思想背景となった"尊攘"が、結果的に欧米列強の植民地支配から日本を守ったとも考えられ、評価の分かれるところであろう。ただ、水戸浪士の行為が支持されなかった理由の一つに、当時の日本人に、暗殺のような卑怯な行為を蔑む心が存在したことが考えられる。その点で、赤穂浪士と水戸浪士では、一線を画するのであろう。また、赤穂浪士の中でも、大石内蔵助に次ぐ高碌を食みながら、途中で脱盟した奥野将監は、卑怯者と蔑まれ不遇の生涯を送ったことも、それを証明していると思われる(2012年5月12日参照)。そんな余計なことを考えつつ出口に向かっていると、"松の廊下"のオープンセットが目に留まる。時代からして、まさか、忠臣蔵関連の撮影用ではないと思うが、昨日の笠間市の訪問地と関連があるのも、奇妙な一致であろうか。ここから、昼食を挟んで、"尊穣"教育の中心となった藩校"弘道館"を目指す。
 14;20、弘道館前に到着する。正門は以前のままだが、正庁(本館)は東日本大震災により甚大な被害を受け、館内は依然見学禁止のままである。よって、正庁周辺の庭園のみの散策となるため、料金は不徴収である。ただ園内に入ると、女性の方が近寄ってこられ、我々の時間の許す範囲内で、弘道館について説明頂けるとか。そこで一緒に正庁前に向かうと、全体が仕切板で囲まれ、漸く復旧工事がスタートしたばかりの状態である。従って、中の様子を窺い知ることができないが、隙間から覗いた限りでは、玄関の間にあった"尊穣"の衝立は無くなっている。一方、説明員の方によると、"関鉄之助"は、10石3人扶持の禄高で、食うにも困る状態だったとか。そんな中で、国を憂い、"尊穣"を貫いた姿勢は、事の善悪は別にして、尊敬に値する。機会が有れば、是非映画"桜田門外ノ変"を見てみたいものである。他にも、"左近桜"の謂れ他につても、熱心に解説して頂いた御蔭で、予定の時間を大幅にオーバーしてしまう。分かれ際に、お名前を伺ったところ、何と大山さん/私とメーカ同期で、水戸出身の故M君と同姓である。ひょっとして、御親戚ではと思い、彼についての更なる情報をお伝えしたが、そうではなさそうである。ただ、大山さんによると、水戸でも余りない名前とか。これも何かの不思議なご縁であろうか。ここから、水戸城址にある旧薬医門他を見学したあと、帰路につく。
 今回は略1年ぶりに、大山さん/小林君と二日に渡って、笠間市と水戸市の歴史/文化探訪を楽しんだ。不思議な出会いや、面白い発見も多々あり、楽しい2日間となった。最後に、病み上がりの中、我々のために精力的に御案内頂いた大山さんに、改めて感謝申し上げたい。 
総歩数:約10000歩
登りの厳しさ:無し 

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