*** 2012年2月4日 真壁町(茨城県桜川市) ***

1.富士山
(ホテル一望
302号室)
2.丹沢?
(ホテル一望
302号室)
3.東京スカイツリー
(ホテル一望
302号室)
4.筑波山神社
随神門1
5.筑波山神社
随神門2
6.筑波山神社
拝殿1
7.筑波山神社
拝殿2
8.筑波山神社
拝殿3
9.筑波山神社
拝殿大鈴
10.さざれ石と
君が代の碑
11.君が代の碑 12.筑波山神社
御神橋
13.真壁町
ひな祭りの幟
14.洋品店の会場1 15.洋品店の雛飾り1 16.洋品店の雛飾り2
17.花崗岩製の雛飾り 18.薬局の雛飾り1 19.薬局の雛飾り2 20.薬局の雛飾り3 21.花屋の雛飾り 22.陶器店の雛飾り
(玉貞作)
23.陶器店の雌雛
(玉貞作)
24.陶器店の雄雛
(玉貞作)
25.歴代の雛飾り1 26.歴代の雛飾り2 27.歴代の雛飾り3 28.干瓢の
左三つ巴紋
29.歴代の雛飾り4
(石屋)
30.歴代の雛飾り5
(石屋)
31.大小の雛飾り1 32.大小の雛飾り2
33.村井醸造の外壁 34.村井醸造の内部 35.歴代藩主家紋
(真壁伝承館)
36.近世の年表
(真壁伝承館)
37.左三つ巴紋の瓦
(真壁伝承館)
38.真壁城址東側 39.筑波山と
一の堀南側
40.二の堀北側
41.鹿島神社1 42.鹿島神社2 43.鹿島神社傍の祠と
大黒像
44.外側の土塁 45.四の堀南側1 46.四の堀南側2 47.四の堀北側 48.鹿島神社と
筑波山
49.浅野家の廟 50.浅野長勲夫妻の墓 51.廟内のお堂 52.浅野長政の墓 53.廟内の石燈籠と
本堂
54.修復中の
伝正寺本堂
55.伝正寺屋根の
浅野家の家紋
56.浅野家家紋入りの
水桶

 2月4日(土)、昨日の登山の疲れからか、思いの外熟睡でき、今朝は爽やかな目覚めである。宿泊したホテル一望302号室からも、富士山や東京スカイツリーが遠望できる。この光景の撮影は後回しにして、先ず三人で朝ぶろとしゃれ込む。昨晩は平日でもあり、宿泊客も少なかったと見えて、ホテルの内風呂は我々の貸切状態である。入浴後は、それなりの味の朝食をゆっくりと摂ったあと、部屋に戻りおもむろに絶景撮影に取りかかる。富士山自体は光線の具合か、先程よりもクリアに見えるが、画面中央に、灰色のスモッグが帯のように広がっている。首都圏の人々は、私も含めて、このような環境下で暮らしているわけだが、中国・ハルピン(2003年12月20日参照)よりは、まだましのように思える。
 9:00、チェックアウトを済ませ、裏道を抜けて筑波山神社に向かう。思いの外立派な神社で、境内も広く、その一角には樹齢800年といわれる大杉も植わっている。また、入口には、徳川三代将軍・家光が寄進した"御船橋"があり、神社のWEBには葵の御紋まで描かれている。圧巻は拝殿の"大鈴"で、余りもの大きさに見とれて、思わずシャッターを切ったが、人の頭の7〜8倍はあろうか。石段手前には、日本国歌"君が代"の石碑と、その中に詠まれている"さざれ石"が置かれている。所で、その国歌斉唱を巡って、賛否両論があるが、1999年に国歌と決められた以上、式典の場でこれを拒否するのは、"無国籍人間"と言わざるを得ない。米国など、ありとあらゆる機会を捉えて国歌斉唱を行っているが、これは軍国主義でもなんでもなく、多民族国家米国の国民としての自覚を促すためである。では日本に、なぜこのような"無国籍人間"が生じたかだが、根底にあるのは、藤原正彦先生の仰るGHQ(戦後処理を行った米国中心の総司令部)の『罪意識扶植計画』ではなかろうか。GHQは戦後、徹底した言論統制と、日教組を通して懺悔教育を強制することにより、"君が代"を斉唱することで、一種の罪悪感を抱かせるように仕向けられた結果であろう。だが、"無国籍人間"が、このような背景も知らずに、個人の自由云々と言っているのは、単なる利己的発言に過ぎないと考えられる。昨日の、拝殿前の中高年の飲食もそうであるが、公の場でモラルを守れない人間が、確実に増えている。これも、戦後欧米からもたらされた個人主義の悪影響であろうが、個人主義は本来、他人の人格をも尊重することで成り立つはずである。伝統文化豊かなウイーンの街中では、行きかう人はお互いに相手に道を譲ろうとするが、日本の大都会の駅構内では、我先にと駆け抜け、ぶつかっても知らん顔である。これは、意外と若い女性に多い。要するに、個人主義を履き違えた利己主義/排他主義である。少々重苦しく雰囲気になってきたので、話題を変える。
 11:00、一度ホテルの駐車場まで戻り、真壁町の"ひな祭り"見学に向かう。真壁町は、筑波山の北側に位置し、嘗て真壁藩の居城があっただけあって、豊かな歴史/文化が残こされている。この"真壁のひな祭り"もその一つで、江戸時代の貴重な雛人形も、展示されているとか。また、文化遺産としては、"真壁城址"が挙げられるが、こちらは後回しにして、ひとまずひな祭り会場に向かう。本日は初日にも拘わらず、意外と観光客は少なく、ひっそりとしている。ただ、街中を歩いていると、東日本大震災で被災した豪邸が目立つ。特に、豪壮な門や土蔵が、甚大な被害を受けており、何とも痛々しい。また、ひたちなか市の大山邸も、大谷石の塀が全壊したとか。そんな話をしつつ会場に向かっていると、大山姓の表札が二軒程目に留まる。大山さんによれば、大山氏は真壁氏にゆかりがあるとか。だが、真壁氏は、関ヶ原の合戦で西方に付いたことにより、1602年に領主"佐竹義宣"と共に、秋田に移封になってしまう。してみると、一族郎党が全て秋田に移ったのではなく、一部がこの地に残ったことになる。考えてみれば当たり前で、反徳川であった佐竹氏は、減封された上で秋田に国替となったので、当然以前の家臣全部は雇えない訳である。
従って、減封の石高に応じた家臣が地元に残り、新たな藩主である浅野氏に仕えるか、下野したのであろう。そんな余計なことを考ながら歩いていると、手打ちそばの露店が目に留まる。相談の結果、昼食には一寸早いが、試食してみることにする。暫くすると、温かい蕎麦が運ばれてくる。聞けば二八蕎麦とか。早速食してみるが、その割にこしも香りも今一つである。これなら、約二年前に、大山さんと食した"西金砂(ニシカナサ)"十割蕎麦の方が、何倍も美味である。腹ごしらえが出来たところで、ひな祭り会場に向かう。会場と言っても、自宅を解放して、玄関の奥の間に雛段を展示している訳であるが、靴を脱ぐことなく見学できて、却って好都合である。陶器店に入ると、何と人間国宝の"玉貞"作なる逸品も展示されている。だが、別途WEB上で調べた限りでは、残念ながら、"玉貞"なる名工は特定できない。
 次に、古式豊かな民家を訪問する。ここには、江戸時代から昭和初期にかけての、歴代の雛人形が陳列されている。ふと、左端に目を移すと、大きな干瓢の容器に、我が家紋と同じ"左三つ巴"が描いてある。ひょっとして、酒井と関わりがあるのかと、説明係りの方に聞いてみたが、この家の者でないので、分からないとか。所で、酒井家は私で30代となるが、家系図からすると、鎌倉時代の有力御家人"波多野氏"から分かれたもので、1221年後鳥羽上皇が起した"承久の乱"の功績で、相模国から小京都と言われた丹波・油井に移ったことになっている。その際、故郷相模国・酒井庄を取って、酒井姓を名乗ったとある。一方、寛政年間に刊行された"丹波志"によれば、"承久の乱"以後に関して、『武蔵国大里久下保の久下氏が氷上郡栗作郷に、相模の住人酒井政親が多紀郡酒井庄に、それぞれ補任されたと記している。・・・』とある。私自身は、酒井政親が"承久の乱"に参戦し、功をなしたか否かまで確認していないが、当時朝廷から没収した荘園の一つである丹波に、"新補地頭"として送り込まれたのは確かであろう。改めて、WEB上で、巴の家紋を調べてみると、上総の酒井氏が"右三つ巴"、後述する忠臣蔵の大石氏が"左二つ巴"と、何やら関係がありそうな気がしてくるが、詮索はこの辺りで留め置きたい。なお、大山さんの親戚や、小林君の実家の家紋も"巴紋"とか、これも不思議なご縁である。
 一寸道草したが、今度は石屋の雛人形を見学する。此方は、ごくシンプルに、昭和初期から平成まで、雌雛と雄雛を中心に展示している。小林君は、花崗岩製のスピーカーボックスも将来研究に加えるためか、名刺を交換している。写真を撮り終えて、店を出ようとしたところ、ガラスの陳列棚に2枚の石の表札を発見する。何気なく覗きこんだところ、何と2枚とも"高橋宏"と彫られている。"高橋宏"さんといえば、昨日"奇遇"でご紹介した、室蘭工大のD先生の大親友で、私とはいすゞ自動車同期入社の間柄である。しかも、新日鉄室蘭病院で、私の命を救って下さった主治医も、"高橋宏"先生である。偶然にしては出来過ぎており、これも、何か不思議な巡り合わせではなかろうか。その後、数か所で雛人形を見学したあと、"真壁伝承館"を訪問する。館内の年表には、歴代の藩主が年代順に列記されており、先程の"佐竹義宣"が秋田に移封後、1606年に"浅野長政"が新たな藩主となったことが分かる。浅野一族は、笠間藩主も含めて、北関東にて三代に渡って藩主を務め、1645年に三代長直が赤穂に移封になっている。更にその三代あとの浅野長矩(内匠頭)が、元禄14年3月14日(1701年4月21日)に、殿中にて吉良上野介刃傷に至るわけである。
この事件から赤穂浪士討ち入りまでが、所謂"忠臣蔵"として広く知られているが、この討ち入りを指揮したのが筆頭家老"大石良雄(内蔵助)"である。この良雄の3代前の"大石良勝"が、笠間藩主浅野長重の永代家老に取り立てられ、以降大石家が代々浅野藩の家老職を務めることになる。従って、真壁町/笠間町が、夫々忠臣蔵の第一/第二のふるさとということになる。
 駐車場まで戻り、その前に広がる"真壁城址"を探索する。残念ながら、本丸は体育館に様変わりしているが、広大な城址内には、何本もの濠跡が残り、全体を萱が覆っている。ふと芭蕉の一句"夏草や、兵どもの夢の跡"が思い浮かぶ。先程の"真壁伝承館"の資料によると、「1622年、浅野長重、真壁・笠間藩を領有し、笠間藩が成立(真壁藩廃藩)」とある。ただこれだけだと、別に廃城までしなくて良いと思われるが、この背景にあるのが、1615年"夏の陣"直後に秀忠が発した"一国一城令"であろう。これにより、幕府の監視をし易くすると共に、旧領地を天領として幕府に召し上げ、財政的にも徳川と戦えなくする狙いであったのであろう。一方、真壁藩が廃藩となった1622年、秀忠は、家康の重鎮・本多正信の子・正純を改易し、嘗てこの地域の領主で秋田に移封された"佐竹義宣"に預けている。嘗て権勢を誇った正純も、その15年後、この地で、寂しく生涯を終えている。これも、歴史の皮肉な巡り合わせであろう。
 14:40、大山さんの案内で、浅野家の菩提寺である"伝正寺"を訪問する。所が、山門は東日本大震災で被災し、立入禁止となっている。仕方がないので、裏口から墓苑に入ろうとしたところ、その手前にも立入禁止の標識が立っている。それでも、折角ここまで来たのだからと、墓苑に向かい始めたところ、背後から呼び止められる。振り向くと、ここの住職と思しき方が、鬼の形相で"震災の復興中なので立入禁止です!"と仰る。そこで、浅野長矩(内匠頭)の家臣"不破数右衛門"に拘わりのある者で、何とかお許し頂けないかと懇願したところ、万一の場合は我々が責任を取ることを条件に、許可頂くことになる。なお、その拘わりであるが、"数右衛門"の実姉"くま"が、酒井家に嫁いでおり、姻戚関係にあったことである。また、数右衛門には子供がなかったことから、切腹後に、姉の元に討ち入りの際の"鎖帷子(くさりかたびら)"や切腹時の"裃"他の遺品が届けられ、それらが代々酒井家に伝わり、現在でも実家に保存されている。御住職は、仮事務所に戻られたので、我々で、"浅野廟"に向かう。西側の浅野家の家紋(丸に違い鷹の羽)が入った門は、堅く閉じられており、反対側の崩れかけた石段を伝って廟に入る。半開きになった西側のお堂には、初代藩主"浅野長政"の五輪塔が安置されている。もう一方のお堂は閉まったままだが、隙間から大山さんが覗いた限りでは、近年法事が行われたらしく、3本の卒塔婆が置かれているとか。東側には、広島浅野宗家13代当主浅野長勲(ながこと)夫妻の、石碑が立っている。また、側の石燈籠には、明治43年4月7日に、浅野長勲公爵が300年祭典を実施したとあり、今でも浅野宗家が、本寺の総代を務めておられる模様である。最後に、住職にお礼を言おうと、仮事務所に立ち寄ったが、奥からは全く応答がない。代わりに、小型の"猛犬"が、歯をむき出しにして、我々を迎えてくれる。今鎖が切れれば、正に噛り付かんとするくらい、獰猛な顔つきである。教育者の端くれとして、どんな飼い方をすると、愛玩犬がこんな猛犬に変貌するのか、気になるところである。ここから、元来た道を筑波大へと急ぐ。
 今回は二日に渡って、大山さん/小林君と筑波山登山と、真壁町の歴史文化の探訪を楽しんだ。不思議な出会いや、面白い発見も多々あり、楽しい2日間となった。機会があれば、第二の忠臣蔵の故郷・笠間町も共に訪れてみたい。

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