*** 2007年3月12日-14日 オーストリア・レオベン&ハンガリー・ミシュコルツ ***

1.朝日1
(ヒルトン・
ダニューブ
632号室)
2.朝日2
(ヒルトン・
ダニューブ
632号室)
3.IAEA本部ビル群1
(ヒルトン・
ダニューブ
632号室)
4.IAEA本部ビル群2
(ヒルトン・
ダニューブ
632号室)
5.ドナウ河を下る
フェリー
(ヒルトン・
ダニューブ
632号室)
6.ホテル周辺
(レオベン)
7.市中心部1
(レオベン)
8.市中心部2
(レオベン)
9.メイン
ストリート1
(レオベン)
10.メイン
ストリート2
(レオベン)
11.モンタン大学
レオベン
(レオベン)
12.教会
(レオベン)
13.住宅街
(レオベン)
14.ミュー川周辺
の風景(レオベン)
15.ミュー川下流
の風景(レオベン)
16.ミュー川上流
の風景
(レオベン)
17.朝霜(レオベン) 18.見晴台(レオベン) 19.見晴台ゲート
(レオベン)
20.雪山
(IC特急列車)
21.快速列車
(Bruck a.d.Leitha駅)
22.ブダペスト東駅 23.ミシュコルツ
の夕暮
24.ミシュコルツ
の朝
25.ミシュコルツ
大学本館
26.ミシュコルツ
大学キャンパス
27.ドップラー
元教授像
(ミシュコルツ
大学講堂)
28.ミシュコルツ駅
と背後の
高層アパート群
29.ハンガリー
農村風景1
(IC特急列車)
30.ハンガリー
農村風景2
(IC特急列車)

 3月12日(月)、本日は研究/留学生交流推進のため、モンタン大学レオベンを訪問する日である。ヨーロッパに到着して、早や3日目の朝を迎えたが、未だに時差ぼけが解消出来ず、早朝目覚めてしまったため、4月から開講する"技術開発論"の講義資料作成に取り掛かる。そうこうする内に、真っ赤な朝日がドナウ河畔から昇ってくる。
ドアを大きくあけ、心地よい冷気が浸入する中、この光景を時々刻々撮影する。朝日を受け、時間と共に順次染まって行くIAEA本部ビル群が、何とも幻想的に映る。
 8時過ぎに、ホテルをチェックアウトして、タクシーでウイーン南駅に向かう。この駅は、グラーツ,レオベン等の南部の都市だけでなく、ハンガリー,チェコ等の東欧への発着点となっている。従って、プラットホーム(以下ホーム)が上中下三段からなる、ウイーン最大の駅でもある。
 8:57レオベン行特急IC533は、静かにプラットホームを離れる。ここから約2時間余りの旅である。11時半頃、列車は少し送れてレオベン駅に到着する。ところが、何時もホームまで出迎えに来て下さるEichlseder教授の姿が見当たらない。探していると、若い男性からProf.Sakai?と声をかけられる。聞けば、同教授は悪性のインフルエンザにかかって、ダウンとのことである。それでも、私との約束があるので、本日何とか起き上がって、出勤されているそうである。律儀な方である。彼の好意に感謝しつつ、大学へと急ぐ。約1年半ぶりの再会であるが、やはり病み上がりのせいで、唇は乾き精彩がない。それでも、私の話をいやな顔一つせず、聞いて下さる。また、彼のアレンジで、Wegscheider学長との面会も実現する。その後、彼を交えて、Sylvia Woelfelさん(学部/修士一貫教育の最終学年)と会談する。彼女は、一見シャイであるが、中々芯が強そうである。なお、彼女は6月から4ヶ月間、本学に短期留学する予定である。
 13日(火)、やはり時差ぼけで早朝目覚めたため、カメラをぶら下げてレオベン市内を散策する。レオベンは、人口僅か25,000の南部の小都市であるが、中世の城郭都市の遺跡が残る情緒豊かな町である。市のHPによれば、ユーモラスな形の見晴台は、1280年に建設されたそうで、独特の存在感を発揮している。また、ミュー川沿いを歩いていると、正に息を呑むような風景が連続する。以前、良く訪れたシュタイヤーにも似た、川縁に発達した長閑な町であるである。ふと、その時に大変お世話になったDr.Krisperの御様子が、気になる。感慨に浸っている間に、列車の出発時刻が迫ってきたので、急いでホテルに戻り、身支度をしてレオベン駅に向かう。
 8時45分の発車時刻まで未だ余裕があったが、早めにホームに出てウイーン南駅行特急列車を待つことにする。インターネットの検索結果では、この列車は2番ホームに到着することになっていたので、その先頭で待っていると、まず3番ホームに列車が到着する。従って、この電車ではないと思いつつ、目的の列車を待っていた所、定刻に列車が同ホームに滑り込む。所が、客車は2等列車ばかりで、どうも様子が変である。そこで、ベンチに腰掛けている女性に英語で聞いたところ、何と隣のホームに停車しているのが、私が乗車すべき特急列車とのことである。それを聞いて、重いスーツケースを引き摺りつつ、脱兎の如く駆け出しこの列車に飛び乗る。指定席に座り、やれやれと思ったのもつかぬま、何とパスポート,カメラ,PC他の入った、命の次に大切な手提げカバンが見当たらない。そこで、コンパートメントの通路を走り抜け、手動ボタンを押してドアを開け、ホームに飛び降りる。運転席に向かって、"Please stop!Please stop!"と叫びつつ、ベンチ周辺を探したが、肝心のカバンは見つからない。暗澹たる思いで振り返ったところ、運転席の窓が開き、私のカバンを手渡して下さる。正に地獄に仏、いや女神である。どうやら、先程の女性が私が列車に飛び乗ったのを見て、運転手に私の落し物を届けて下さった模様である。運転手も含め、オーストリアの方々に感謝しつつ席に戻る。益々オーストリアが好きになると同時に、駅で到着ホームを確認しなかった軽率な自分に、恥じ入るばかりであった。
 この後、ウイーン南駅,Bruck a. d. Leitha駅,ブダペスト東駅にて列車を乗換えて、予定通り夕刻にミシュコルツ駅に到着する。駅にはKalmar教授が出迎えて下さる。前回は夜9時過ぎに到着し、それから学部長を交えて、喧々諤々の議論が始まったが、以降本音で付き合える間柄になった。所で、ハンガリー人は勇猛果敢なマジャール族の末裔で、東欧では唯一のアジア系である。従って、赤ちゃんに蒙古斑が現れたり、姓が名前の先に来るなど、アジア系の特徴を有している。外見は白人に近いが、蒙古斑の出ない中華民族よりは、むしろ遺伝的には日本人に近いのかもしれない。
 14日翌朝、ミシュコルツ大を訪問する。本年秋に、本学建設4年のA.Oさんが、ミシュコルツ大に短期留学する関係で、留学生寮を見せて頂く。その後、大学施設とキャンパスを案内頂く。歴史と伝統を誇る名門大学だけあって、大学の講堂には、何と大学者クリスチャン・ドップラー(ドップラー効果の発明者)の胸像が飾ってある。
Kalmar先生の話だと、19世紀のある時期、この大学で教授をされていたそうである。列車の出発時刻が迫ってきたので、先生の車でミシュコルツ駅まで送って頂く。また、ご親切にも私の荷物を席まで運んで下さり、そのまま暫く談笑していた所、列車が静かに駅を離れてしまう。先生は慌ててデッキに戻られ、手動でドアを開けて下車される。改めて、昨日の悪夢が蘇ったが、いざとなれば手動で対処できることも判明した。いずれにしても、焦りは禁物である。
 帰路は、先ずブダペスト空港からLH3445便にて、フランクフルト空港に向かう。ここでNH210便に乗換え、翌夕刻成田に戻る。機内では、同世代と思しき男性の方と相席になる。"こんにちは"と、笑顔を交えて挨拶をされる。何とも感じの良い方である。その内、どちらからともなく話し出す。ご本人の希望で、仮にXさんにしておくが、準大手ゼネコンに勤務されたのち独立され、現在は米国で情報関連の会社を経営されている方である。
Xさんは非常に饒舌な方で、面白い話が次々と出てくる。成田到着直前では、趣味にまで及び、それがお互いに一致(写真撮影)することが分かる。しかも、愛用の一眼レフデジカメ(CANON EOS5D)まで同一である。そこで改めて、カメラ用ザックを開いて見せ頂いた所、Lシリーズの高級レンズがぎっしり詰まっている。まあ、小型車が1台買える位の値段で有ろうか。私よりも、ずっと凝り性の方のようである。結局睡眠時間を挟んで、合計4〜5時間もお喋りすることになったが、色んな意味で大変勉強になった。これも何かのご縁であろう。お互いの健康を願ってお別れする。通関後、千歳便に乗換え室蘭に戻る。
 今回、3月9日から15日にかけて、国際交流推進のため、オーストリア/ハンガリーの大学を単独で訪問した。間一髪の際どい場面もあったが、親切な方々のお陰で無事帰国することが出来た。正に奇跡と言うしかない。改めて、今回お世話になった方々に、御礼を申し上げるとともに、皆様のご多幸を祈り筆を置く。
《その他》成田到着直前、前述の手提げカバンの取っ手が、役目を終えたかの様に壊れてしまった。永年海外出張時に持参した愛着ある品なので、修理して再使用したい。

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