風のタペストリー 0-5

(1999.5.20-1999.10.18)


0●引用の織物

1●ポケットの中の月

2●岸辺のない海

3●キラキラヒカル

4●りんごへの固執

5●誰でもないものの薔薇

 

 

 

風のタペストリー0

引用の織物


1999.5.20

 

私はそれを引用する

他人の言葉でも引用されたものは

すでに黄金化す

(吉岡実「楽園」より)

 他人の言葉と自分の言葉はどうちがうのだろう。あなたの言葉と私の言葉。

 あなたが発するときあなたの言葉は「黄金化」している。ひょっとしたら私の発しているときの言葉もまた「黄金化」しているかもしれない。

 けれどあなたの言葉を私が「引用」したならば、そして私の言葉をあなたが「引用」したとしたならば、その言葉は「黄金化」することができないのだろうか。

 「内なるキリスト」というのも、外なるキリストを自分のもっとも深みに種のように植えながら、それを自分という場所で育てていくものかもしれないのだから、このシリーズでも、外なる他人の言葉を「引用」して「種」にしながら、それを育てていきながら、言葉の「黄金化」を試みたいと思っています。

 名づけて「風のタペストリー」。どのような方法で織物を織っていくのかまったく考えないでその都度の「言葉」に導かれながら進めていきたいと思います。

 

 

 

風のタペストリー1

ポケットの中の月


1999.5.20

 

 ある夕方 お月様がポケットの中へ自分を入れて歩いていた 坂道で靴のひもがとけた 結ぼうとしてうつ向くと ポケットからお月様がころがり出て 俄雨にぬれたアスファルトの上をころころころころどこまでもころがって行った お月様は追っかけたが お月様は加速度でころんでゆくので お月様とお月様との間隔が次第に遠くなった こうしてお月様はズーと下方の青い靄の中へ自分を見失ってしまった

(稲垣足穂「一千一秒物語」より「ポケットの中の月」)

 ぼくは自分をポケットの中に入れて歩いていたのだがポケットのなかのぼくのことをずっと忘れてしまっていたおそらく生まれてからずっと思い出したことなんかなかっただからポケットからころがり出た自分を自分だとは思わなかったのだでもポケットからころがりでたものを追いかけてぼくはよくわからないままに駆けだしていたそうしてころがりでた自分を見失ってからもなにかをなくしてしまって残念な気持ちはあったもののそれがいったい何だったのかはわからなかった

 高校の頃、稲垣足穂の「一千一秒物語」を読んでとても不思議な気持ちになったのを覚えている。不思議の上に明るいユーモアが乗っかっているのをなんだかまぶしいような気持ちで読んでいた。この「ポケットの中の月」はその中でもとても印象に残っている話で、自分をポケットの中に入れているお月様というパラドックス、しかもそれが自分を見失ってしまう悲喜劇をぼくなりにその後いろいろ考えてみたりもした。

 ぼくはぼく自身を失ってしまっているのではないか。ほんとうはポケットのなかに入っていたはずの自分を。むずかしいのはぼくがぼく自身のことを考えるときそのぼくはいつもぼくの中にではなくぼくの外にあった。そのことに気づいたときぼくはめまいのようなものを感じた。即自の不可能性と対自ということなのだけれど、このときから、ぼくには「ぼくがぼくであること」ということがつきまとって離れないようになってしまった。けれどぼくはほんとうはぼくではないのかもしれない。そういう離人症的なアンビバレント。

ポケットの中に入っていたのが

じつはぼくだったんだと気づいたぼくは

ではこのぼくはいったいだれなんだろうと

ぼくが去っていた方向を眺めながら考えた

ぼくを見失ってしまったぼくは

いったいぼくなんだろうか

ぼくはここにこうしているはずなのに

 

 

 

風のタペストリー 2

岸辺のない海


1999.5.20

 

考えなければならないことはいっぱいある。いっぱいあるはずなんだ。だけど、何故、考えなければならないのか、もしくは、ぼくが何かについて考えることがどんな意味があるのか、わからない。ぼくが誰で、そして、何のためにここにこうして存在しているのか、わからない。たとえば、大きな暗い森があるんだ。それはそれは大きな森で、入口も出口も、そんなものがこの巨大な古い森にあるなんて考えも及ばないような、終わることのない樹木に覆いつくされた、太古から続いている暗い森。分厚い層になった腐植土の粒子の一粒ほどの存在価値を、まったくの幸運としか言いようがない思しめしで与えられているんだ。森全体にとって、一粒の粒子なんて、取りに足りない卑小きわまるものにすぎないだろう。でも、実際のところ、ぼくはそういった気分なんだ。こうしてぼくは、まだ図々しくも、<ぼく>などと自分のことを僭称しているけれど、これは大それたことかもしれないんだ。きみにはわかるだろうか?ぼくがどんなに取るに足りない小っぽけな存在だということが。ぼくが本当は存在しない方が正しいんだということが。そうなんだ。ぼくは、とっくの昔に死んでいるべきだったんだ。これは、こうしてまだぼくが生きているということは、何かの間違いで、もともと間違っている自分の生に対して、どう真面目になれると思う?こういうことなんだよ。もともとそこにいる権利も資格もない場所で、図々しく権利と資格を主張しているような、人生に対する一種の詐欺師なんだ。たえず、誰かに「お前はここにいる権利も資格もない」ということを指摘されるのじゃないかと、びくびくしながら、ぼくは生きてきた。でも、今さらどうしようもないことなんだ。ぼくは嘘つきの裏切り者の、弱虫の、だらしない男だ。多分、きみが思っている以上に、駄目な男で、今まで自分のやって来たことを全部取り消しちまいたいと思っているよ。疲れているんだ。もう、本当に疲れたよ。ぼくは何も書けない。何も書いてなんかいなかったんだ。ぼくが書く理由なんてありはしない。重要なことは、このことだ。ぼくには書く理由がないということ。この基本的で唯一の真実の前で、いったい、ぼくはどうすればいいというんだろう。長いこと(ぼくなりに、長いこと)かけて、ぼくが発見したのは、このことだったんだ。だから、ぼくは今何一つない。長い夜と長い昼。書かれることのない言葉。二重にぼくを束縛する偽の告白ーーぼくは真実を言うが、その真実はぼくを裏切りつづける。あるいはぼくは嘘を言い、その嘘がぼくの真実になる。そしてぼくは、自分のことを喋りつづけるだろう。ぼく自身に近づくために、もしくはきみに限りなく近づいて、きみの最大の関心事と化して、ついに君自身と一致するために、もしくはきみに軽蔑されつくして相手にされなくなるために、もしくはぼく以外のぼくを造り出すためにーー。ありとあらゆるところに、きみは存在しつづけている。ぼくが<きみ>と呼びかけるきみは、無数で唯一のきみは、古い森のようにぼくの存在を包んで、無数の女の曖昧な裸の裸身のむこうで、ぼくの視線を浴びているのに、ぼくにはきみの姿が見えないよ。現実の女たちの裸身に隠されてしまってーー。きみは、もともと、ぼくがいるところにしか存在してなかったんだ。まるで、ぼくの肉体か何かのように

(金井美恵子「岸辺のない海」より)

 

ぼくは巨大な森のなかにいた

入口も出口も存在していないかのような深い森 

そのなかでぼくはぼく自身を見失っていた

見失うぼくさえ存在していないかのように

 

ぼくはどこからやってきてどこに行こうとしているのだろう

いやぼくはどこからもやってこなかったし

どこにも行こうとなんかしていないのかもしれない

ぼくという存在はほんとうは存在していないのかもしれないし

存在しているとしても存在しないほうがよかったのかもしれない

 

ぼくにはなにもない

ぼく自身さえないのかもしれない

あるいはぼくにはなにかがあるのだが

ぼくという存在にはすべての意味が剥奪されてしまっている

あるいはぼくという存在はそれ自体が虚偽である

あるいはひょっとして意味があったとしても

あまりにちっぽけすぎて取るに足りない

あるいはぼくというのはただ偶然にできた泡のようなもの

あるいは偶然そのものがたまたま現象化してしまったもの

 

そうしてぼくは深い深い森のなかにいて

ぼくがぼくであるという矛盾を呼吸していた

 

だからぼくはきみを探した

探し続けていた

ぼくがぼくであるためのきみを

ぼくにはきみがみえないのだけれど

きみがほんとうはあらゆるところに存在していることを

なぜか知っていた感じ取っていた呼吸していた

ぼくであることのすべてがきみだから

けれどきみのことを何一つ知ることはできないでいた

 

ぼくはどうすればいいのだろう

ぼくはどこに行けばいいのだろう

ぼくは深い深い森のなかにいて

あるいは途方もなく広い海のうえを

岸辺を見ることのできない海のうえを漂いつづけていた

 

金井美恵子の「岸辺のない海」は、ぼくの大学時代のある種の「気分」をよく表している。まさに、「岸辺」を見出すことのできない「海」の上で永遠に浮遊しているような気分。ぼくはまさにぼく自身という謎の前で立ちすくんでいた。いや正確には、立ちすくむための謎をやっと獲得しはじめていた。

けれどその謎に直面しはじめないかぎり、どこにも行けないのだと思う。その謎は入口であり、その謎があるということに気づけないかぎり、人は自分がどこかに存在していると思っていても実際にはどこにも存在していないのではないだろうか。

ぼくは入口をやっと見つけたのかもしれないが、その迷宮の入口から踏み込んだところぼくがぼくであるということの深い森のなかですべてを見失いかけていたのかもしれない。

まさに、Ich bin、I am。ぼくはぼくであるところのぼくである。しかしそのぼくはいったいだれなのかがわからない。そういう深い森、もしくは岸辺のない海。もしくは、モーセのいない出エジプト、エクソダス。そこには樹海のような森が、果てしない海が、果てしない砂漠だけがあった。

あの14歳の少年は、深い森に踏み迷ってしまい、踏み迷ってしまったと思ったとたんに、その迷いを続けることを放棄してしまったが、ぼくはその後十数年に渡って迷い続けることになる。迷い続けることを安易に放棄することはできなかったから。

 

 

 

風のタペストリー3

キラキラヒカル


1999.10.9

 

キラキラヒカルサイフヲダシテキ

ラキタヒカルサカナヲカツタキラ

キラヒカルオンナモカツタキラキ

ラヒカルサカナヲカツテキラキラ

ヒカルオナベニイレタキラキラヒ

カルオンナガモツタキラキラヒカ

ルオナベノサナカキラキラヒカル

オツリノオカネキラキラヒカルオ

ンナトフタリキラキラヒカルサカ

ナヲモツテキラキラヒカルオカネ

ヲモツテキラキラヒカルヨミチヲ

カエルキラキラヒカルホシゾラダ

ツタキラキラヒカルナミダヲナガ

シキラキラヒカルオンナハナイタ

(入沢康夫「キラキラヒカル」

 「倖せ それとも不倖せ」所収)

 最も好きな詩人はだれかと聞かれたら、入沢康夫と答えるだろう。吉岡実も気になるところだけれど、やはり最もとなると入沢康夫。とはいえおそらく知名度はそんなに高くないかもしれない。ひょっとしたら宮沢賢治のほうから、その全集校訂の仕事のほうでその名前を目にしたことがあるかもしれない。それとも、ネルヴァルの訳者として・・・。とはいえこの「キラキラヒカル」というのは、小説の題名にもなっているし、映画化されたりもしている。もっとも、それらは直接は入沢康夫とは無関係だけれども。

 大学の一年の頃、思潮社からでている「現代詩文庫」を知り、最初に買ったのが入沢康夫だったように記憶している。最初はたしか780円だった。その他にも、さきの吉岡実、金井美恵子、天沢退二郎、北川透、谷川俊太郎、那珂太郎、鈴木志郎康などなど、このシリーズを次々と買い求めては鞄の中に入れていつも読んでいた。松岡正剛の「遊」や朝日出版社の「エピステーメー」などがまだ刊行されていた頃のこと。

 現代詩がわかるというのではなかった。わかったとかわからないいとかいうことを超えて、新鮮な言葉たちがぼくのなかの言葉にならないなにかを刺激してくれた。その後、いわば「現代詩」などを読む機会は減ったのだけれども、入沢康夫はなぜか読み続けていた。

 「キラキラヒカル」はその最初の詩集「倖せ それとも不倖せ」に収められている。「夏至の日」「古い土地」「ランゲルハンス氏の島」「季節についての試論」「わが出雲・わが鎮魂」「声なき木鼠の唄」「倖せ それとも不倖せ・続」「『月』そのほかの詩」「かつて座亜謙什と名乗った人への九連の散文詩」「牛の首のある三十の風景」「駱駝譜」「春の散歩」「死者たちの群がる風景」「水辺逆旅歌」「歌ー耐へる夜の」「夢の佐比」「漂ふ舟」、そして「唄ー遠い冬の」という詩集たち。それから、「詩の構造についての覚え書」などの詩論。それらの言葉たちの底にある、深い深い「悲しみ」のようなものをぼくは聴き続けているのかもしれない。

 入沢康夫の詩などのなかから、記憶しているほど繰り返し読んできた部分をいくつか拾い出しながら、それらの言葉たちを「鎮魂」してみたいと思う。そう、ひょっとしたらその「鎮魂」としての詩というのが入沢康夫の詩の形容としてふさわしいのかもしれない。 

少くとも季節のめぐりを学ぶために 遠い国々までも旅

する必要はないであろう 粗野な舞踏と喧噪な音楽の中

で 私がまたしてもあなたを見出すとき 見たまえ 広

大な水面から突き出された五本の杭をめぐつて 何とい

う沢山の影が揺れることか 驚いた野馬たちが分散し

またゆつくりと集つてくる そして形のない信号に応じ

て一団となり 林を迂回して行く

(「平原の街づくり」より)

 

類似は第二の類似を生む

彼女が捨てようとするのはひとにぎりの種子である

彼女の七つの影は作られた笑いと共にひろがり

そして 土埃と共に掃きよせされる

彼女の肉体は夜空に けやきの木のようにはりつけにされ

帰つて来る昔の人々のためのため目標とされる

(「死んだ男」より)

 

淋しい歌を一つ聞いて下さい 三十六人ででかけ

ていつて三人帰つて来た 赤い頭巾をかぶつて笑

つていた七人のうち六人は帰つて来なかつた 野

原の向うにちよつぴり頭を出しているけやきの林

お日さまはあそこまで来ると そそくさと垂直に

落ちてしまう

(「ランゲルハンス氏の島」より)

 

季節に関する一連の死の理論は 世界への帰還の許容で

あり 青い猪や白い龍に殺された数知れぬ青年が 先細

りの塔の向うの広い岩棚の上にそれぞれの座をかまえて

ひそかに ずんぐりした油壺や泥人形 またとりどりの

花を並べ 陽に干していると虚しく信ずることも それ

なればこそ 今や全く自由であろう

(「季節についての試論」より)

 

やつめさす

出雲

よせあつめ 縫い合わされた国

出雲

つくられた神がたり

出雲

借りものの まがいものの

出雲よ

さみなしにあわれ

(「わが出雲・鎮魂」より)

 

熱病の鶏はいつせいに立ち去つて行く樹々の踵に心を奪

はれて右に左にかけまはり 麻袋に入れられ束ねられた

幾千の死体が並び立つ櫓の上から投げ落されたり 色チ

ョークで印を付けられた扉が次々と釘付けされたりして

ゐることには むろん一向に気づかないのだが この夕

べの生臭い傲慢さを憎むあまりに秘かに揺らめく磁針が

それとなく指し示すそのあたり

(「碑文」より)

 

 私は いや私たちはと言はう、帰って来たのだ。あの

菱の実形に歪んだ太陽の下で枯草色に爛れていた海から

海を渡つて。

(「異海洋からの帰還」より)

 

私は 私は と書いてしばらくペンを休め と書き 私は

それを二本の縦線で消し と私は と私は 書きかけてや

め やめという字を黒く塗りつぶしてから と書いて 海

は と私は書き 

(「私は書く(ある校訂記録)」より)

 

 試作品の根源にあるもののことについては、それは語

ることはできず、歌うよりほか仕方がない。あれについ

て、人々に倣って<彼方のもの>と呼び、<詩のオリジ

ン>と呼び、<中心の炉>と呼び、<煮えたぎる坩堝>と

呼び、<聖なるもの>と呼んでみても、それらはすべて

便宜的な比喩であり、形容(それぞれに感覚的には適切

だが)に過ぎない。

(「作品の廃墟へーー幻想的な作品についての妄想的な断想」より)

 

 

 

風のタペストリー4

りんごへの固執


1999.10,12

 

紅いということはできない、色ではなくりんごなのだ。

丸いということはできない、形ではなくりんごなのだ。

酸っぱいということはできない、味ではなくりんごなの

だ。高いということはできない、値段ではないりんごな

のだ。きれいということはできない、美ではないりんご

だ。分類することはできない、植物ではなく、りんごな

のだから。

(谷川俊太郎「りんごへの固執」 詩集<定義>より)

 この「りんごへの固執」という詩を含む<定義>という谷川俊太郎の詩集は思い出深い。とりわけこの「りんごへの固執」は象徴的な意味でもそうだ。

 なにかを定義するということ。それはなにかを箱にいれて分類するようなもの、あるいは見る角度を決めて立体を二次元化するようなもの、「あなたはこんな人ね」と決めつけるようなもの、分かることで分けられたままになってしまうようなもの。

 男だということはできない、性別ではなく私なのだ。会社員だということはできない、職業ではなく私なのだ。日本人だということはできない、民族ではなく私なのだ。B型であるということはできない、血液型ではなく私なのだ。水瓶座であるということはできない、星座ではなく私なのだ。

 私は某であると定義されてしまうことで、私ではない何者かになってしまう。記号に置き換えられてしまう人間としての私。コードナンバーで識別されてしまう人間としての私。

 

 

 

風のタペストリー5

誰でもないものの薔薇


1999.10.18

 

誰でもないものがぼくらをふたたび土と粘土からこねあげる、

誰でもないものがぼくらの塵にまじないをかける。

誰でもないものが、

 

たたえられてあれ、誰でもないものよ。

あなたのために

ぼくらは花咲こうとねがう。

あなたに

むけて。

 

ひとつの無で

ぼくらはあった、ぼくらはある、ぼくらは

ありつづけるだろう、花咲きながらーー

無の、誰でもないものの

薔薇。

 

魂のあかるみを帯びた

花柱、

天の荒漠さを帯びた花粉、

棘のうえで、

おおそのうえでぼくらが歌った真紅のことばのために赤い

花冠。

 

(パウル・ツェラン「頌歌Psalm」飯吉光夫訳

 「パウル・ツェラン詩集」思潮社1975.6.1発行より)

 

誰でもないものがぼくらになりまた誰でもないものになる。

誰でもないものがなぜぼくらになろうとしたか、

誰でもないものが。

 

たたえられてあれ、誰でもないものよ、ぼくらよ。

あなたのために、そしてぼくらのために、

あなたは、そしてぼくらは

花咲こうとねがう。

あなたに、そして

ぼくらにむけて。

 

ひとつの無で

誰でもないものはあった、ぼくらはあった、

今もあり、そしてありつづけるだろう、花咲きながらーー

無の、誰でもないものの、あなたの、ぼくらの

薔薇。

 

私という現象が光となって灯る

花柱、

星の輝きをちりばめた花粉、

宇宙の神秘の屈折した棘のうえで、

おおそのうえでぼくらが、そしてあなたが歌った

真紅のことばのために赤い

花冠。

 


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