風のタペストリー●武満徹レゾナンス21「さわり」
音色に対して鋭敏な(日本人)の耳が落ち入りやすい危険についてはこれまでも指摘してきた。それは、余りにも音色に耽ることによって、時として音楽の世界は反って閉ざされたものになってしまう。音楽は広がりをもたず退廃に向かう。だが、邦楽の底をつらぬいていた、独特な美的観念としてのさわりは、かならずしもそのように閉ざされたものではない。その語源は、本来、他のものにさわるということから来ているのであり、さわりの当初の意味の一つは、他の流派の傑れて目覚ましいものを自己の流儀にとりいれるということであった。
自然の音と差別されないような、また、西洋の耳には雑音としか聞かれない音に、美を感じるということはどういうことであったろうか。
現在でこそさわりは表現上の慣習といったものになってしまい装飾としての意味を超えるものではなく、それはあまりに自己完結的である。しかし、その語源からも知れるように、さわりということばの有つ意味は、ほんとうは今日想像しえないほどに、むしろ激しく動的な姿勢ではなかったろうか。それは固定的な美的観念ではなく、行いのなかに、つまり生活のなかに求められた態度ではなかったかと思う。さわりは、音の生きた実相を聞きだそうとする欲求であり、一音に世界を聞くことなのではないか。そこでは音は厳然として自立し、しかも他と一体であるというような響きでなければならなかった。
残念ながら、現在の日本の音はその点きわめて曖昧で、覚束ない。
(武満徹「樹の鏡、草原の鏡」より「日記から」「武満徹著作集1」(新潮社)よりP322-323)
不純なものを
限りなく削ぎ落とし
屹立していく美
その厳密に構築された美のまえで
私は立ちすくむ
そしてその秘密に迫ろうとする
それは宇宙の謎にまで向かい
やがて反転し
私はなんであるのかが問われてゆく
純化することを避け
どこまでもひらいていく美
不純さを引き受けながら
他のなかに分け入っていこうとする美のなかで
私は激しく揺さぶられる
私は美のなかに生きているのだ
そして私は宇宙の響きと化し
謎そのものが私となってゆく
風のタペストリー●武満徹レゾナンス22「さなぎ」
T だいたい尺八は鈴との縁が深いんです。海道道祖の道曲に『霊慕』という曲がありますが、霊という字は本当は鈴だというんですね。鈴慕ですね。
U それはおもしろい。鈴というのは銅鐸すなわちサナギの後進で、サナギという語には真空にさわるという意味があるんです。鈴のことも古代語ではサナギといいますし、サナギは魂を振るための呪力をもった楽器だったんですね。その音を尺八が慕うとすれば、これは深遠な音をさぐろうとするのは当然ですね。
(武満徹「樹の鏡、草原の鏡」より「だれかが謎の音を聞いている」
「武満徹著作集1」(新潮社)よりP379)
さなぎのなかにはなにがはいっているの?
こどもとおとなのあいのこさ
なかでなにしてるの?
うたってるのさ
どんなうた?
たましいをゆさぶるうたさ
なにをうたっているの?
どこにもないからどこにもあるところのこと
なぜうたうの?
なぜうたいたいのかしりたいからかもしれないな
風のタペストリー●武満徹レゾナンス23「垂直な音」
T ぼくたちが音という場合には西欧的で自然主義的な単位になる音を想定してしまうわけだけれど、もっと複合化された音の体験を土台にしないと問題にはならない。たとえば僕は雅楽を聴いた時に、直観として「音は垂直に立っている」と書いたことがあるけれど、それを読んだある評論家は「こんなバカ気たことをいう奴がいる」と批評していましたが、その人は音がきっと横に寝ているとおもっているんでしょうね。
(武満徹「樹の鏡、草原の鏡」より「だれかが謎の音を聞いている」
「武満徹著作集1」(新潮社)よりP381-382)
大空を飛翔できる翼をもちながら
飛ぶことを忘れてしまった鳥のように
空に響きわたる声で歌えるはずなのに
歌を忘れてしまった金糸雀のように
ぼくたちはじぶんを閉じこめ
素晴らしいはずのことを
バカげたことにしてしまっている
迷路を鳥の眼で見ることができず
疲れた足で彷徨いながら
ぼくたちは物質の複雑な塊にすぎなくなる
球がたったひとつだけの
切り取られた円にしかみえなくなってしまうように
最初に直立二足歩行をした人間は
「こんなバカバカ気たことをする奴がいる」
と批評されたのかもしれない
どうしてわざわざ自我なんていう汚れたものを纏ったのかと
重力に逆らうなんてとんでもないことだと
ハムレットは胡桃の殻に閉じこめられても
無限の天地の主と思いたがっていたようだが
そろそろぼくらは胡桃の殻になんか
閉じこめられてなんかいないんだと気づかきゃいけないんだろう
音にちゃんと生えている翼のことにも
気づかなきゃいけないように
風のタペストリー●武満徹レゾナンス24「消す音」
U 音自体が芸術として存在していることや空間を内包していることも重要なんですが、それとはちょっと別に、音は出すものだというか、そいうふうにおもわれているわけですね。ところが、たとえば木の葉っぱのように音を消すようなものもある。自然界はそういうように音を出すものと消すものが多様な形で相対しているんではないか。なぜそうおもうかといいますと、昔武満さんが『樹の曲』というのをかいて、木の葉を聴こうとしたことがありますね。それがきっかけなんですが、木という存在をあらためて考えてみると、枝を張って葉を茂らせて、いわば中にいる生きものの声を全部吸っているようなところがあるんですね。(武満徹「樹の鏡、草原の鏡」より「だれかが謎の音を聞いている」「武満徹著作集1」(新潮社)よりP383)
がみがみがみがみ
くどくどくどくど
どくどくどくどく
垂れ流された小言や文句や悪口を
スポンジのように吸い込んでくれる音楽があれば
心の耳がひらくかな
がざがざがざがざ
じゃらじゃらじゃらじゃら
ざわんざわんざわんざわん
流しっぱなしのBGMや効果音や騒音を
すーっと消してくれる音楽があれば
自然の声がきこえてくるのかな
言葉があまりにコピーになって
複写されるだけのものになり
あまりに軽くなりすぎているから
だいじな言葉以外はみんな消してしまいたいときがある
音楽があまりに騒音になって
いつでもどこでも垂れ流されるものになり
あまりに響かないものになっているから
だいじな音楽以外はみんな消してしまいたいときがある
反重力や反宇宙があるのなら
反音というのもあるのかもしれない
心のなかに響いている暗い澱みだって
その捨て場を探しても
棄てられた場所が汚れてしまうから
響かせれば澱みが消える
そんな放射能除去装置のようなものがほしい
そうすれば最初の最初にそこに響いていた声が
きこえてくるかもしれない
風のタペストリー●武満徹レゾナンス25「言霊音響」
T アイヌの音楽とかギリアークの音楽を聴いていたり、ユーカラを聴いて昔のハワイの音楽などを聴くと、とても似ているんですよ。そういう国は非常に母音が多くて、オ・オ・とか、ア・ア・とかウ・ウ・とかを多用する。ア・ウラウラウラとか言うわけです。それがだんだん近代に近づくにつれて子音の占める比率が多くなってくる。まあいわばシャープになってきているわけですね。それでこの前考えていたんだけれど、星なんかは母音的だろうか子音的だろうか、ということなんですね。僕は、あれがあゝとかおゝとかいう音で光っているんじゃなくて、スィッーとかいう子音的な音を出して光っているんだと思うんですよ。
(武満徹「樹の鏡、草原の鏡」より「だれかが謎の音を聞いている」「武満徹著作集1」(新潮社)よりP386)
すーすーすー
と
すみわたり
すーうっと
う
が生まれ
あ
お
え
い
を生んだ
宇宙に鳴り響く
五大父音
天地結水火
アオウエイ
これより発する
七十五音の
天地生成音響の
一大交響曲
はじめに言葉があり
宇宙は言葉で織りなされ
そうして私はいま
わ・た・し
とうたい
あ・な・た
とささやく
その大不思議を
天の星々は煌めかせ
内なる星々は照らし出す
そうして
共鳴する言葉の器のなかで
あ・い
が
生まれる