風のタペストリー

武満徹レゾナンス11-20

(2000.10.11-10.23)

武満徹の言葉と絶えずレゾナンス(共振)すること。

その音楽に耳を澄ませ、ぼくという器にそれを響かせていくように。


●武満徹レゾナンス11「流行歌」

●武満徹レゾナンス12「起源」

●武満徹レゾナンス13「未知」

●武満徹レゾナンス14「完結」

●武満徹レゾナンス15「他者」

●武満徹レゾナンス16「悲哀」

●武満徹レゾナンス17「鏡」

●武満徹レゾナンス18「関係」

●武満徹レゾナンス19「谺」

●武満徹レゾナンス20「信号」

 

 

風のタペストリー

武満徹レゾナンス11「流行歌」


2000.10.11

 

 歌というものは、人間生活の多面な感情に結びついているものである。とすると、たんなる風俗的な現象として大衆歌謡をとらえることは誤りになる。歌は、実は大衆の好みに投じて生産されるものではなくして、大衆の間から歌いだされるべきものなのである。(…)

 一般的な意味での大衆歌謡は戦前の演歌調、戦中の軍歌、戦後のジャズの影響を蒙ったもの、とそのスタイルは千差万別であるが、日本の歌謡曲の特質は、時代のなかでいつもこぢんまりと洗練されて粗野の気風なく、これは日本民謡の特質でもあった。

 大衆の歌に「流行歌」という呼び名があたえられているのは日本だけではないだろうか?私はこの言葉が好きではない。呼称の当否はともかくとしても、私は、歌が一時的な流行と同様に考えられていることに少なからず不満をもっている。

(武満徹「音、沈黙と測りあえるほどに」より「流行歌」「武満徹著作集1」(新潮社)よりP153-154)

 

使い捨ての歌専用

ゴミ箱あります

リサイクル商品も各種取り揃え

 

システムとして生み出される歌を

システムとして消費する図式の上で

機械仕掛けの人形のように歌い踊る

 

こんどはなあに

こんどはなあに

 

消費される歌のシステムの背後で

笑うオペレーターの存在は見えているか

感情をシステム的に操る魔術が

あまりにも容易に作用する時代

 

さあ踊れ

さあ踊れ

 

無常観ゆえ

無常を忘れようと

流行を追うのか

行く河の流れは絶えず

水に流そう

水に流そうと

 

ワジのような川となった人に

鉄砲水のような流行が襲う

空虚と怒濤の歌の繰り返し

 

使い捨ての人専用

ゴミ箱あります

リサイクル商品も各種取り揃え

 

 

 

風のタペストリー

武満徹レゾナンス12「起源」


2000.10.12

 

 私たちの世界には多くの異なった音楽があり、その分布も複雑である。今日の西欧音楽の体系がさだまったのはごく近代のことであり平均率の確立された時代には、私たちは今日もなお聴くことができるさまざまな音楽を手にしていた。人間が地上にあらわれた時から音楽はあったにちがいないのだが、私の音楽の起源的な構造(structure)ーー今日呼ばれている音楽的構造とは関わりのない発生の起源を、まず伝統的な琵琶や尺八を通して知りたいと思った。これは言い換えれば、いかに書くべきかと同義に受け取られかねないが、いかに書くかという考えにとりつかれている作家かならずしも傑れず、おおむねは貧しい。私にとっては、いかに書くべきであるかは些細のことであり、音楽の起源的な構造を想像的に志向することが大事であった。(…)

 西洋も東洋もない音楽の発生の起源(origin)を求めるべきである。音楽の起源的な構造を知るためには、あるいはイアニス・クセナキスのような数学的な思考はユースフルかもしれないし、ジョン・ケージや一柳慧のチャンス・オペレーションも役立つにはちがいない。そしてさらに私たちには過去から今日につらなり未来に役立つ多くの音楽がある。琵琶や尺八はそのごく僅かのものでありマイクロネジヤ、ポリネシア、ガムラン、中国の音楽、バンツー族の歌、ヒンズーの歌、それらは複雑に入組んだ関係で地上にある。東洋と西洋を融合するなどという馬鹿げた命題とは関わりなく、私たちはそれらの音楽を聞くべきである。そうしたさまざまの音楽によって人間は生きてきたのだから。

 そして、それら古い生命をもった音楽が新鮮な響きとして聴こえることに、私たちはまず当惑するにちがいない。

 問題はそれからのことだろう。

(武満徹「音、沈黙と測りあえるほどに」より「音楽の起源的な構造を想像的に志向すること」「武満徹著作集1」(新潮社)よりP184-186)

 

あなたが

いない

こんなに

そばにいるのに

 

はじめて会ったときの

あなたはもういない

会うたびごとに

消えていくあなた

 

あなたのかわりに

そこにいるのは

いったいだれだろう

あなたの顔をした

わたしのつくりあげたあなた

 

わたしが

いない

いつも

わたしはわたしのはずなのに

 

わたしでしかない

わたしはもういない

わたしのかわりに

ここにいるのは

いったいだれだろう

わたしの顔をした

わたしの消えさったわたし

 

歌が

きこえない

おびただしいほどに

歌われているはずなのに

 

歌のかわりに

ここにあるのは

いったい何だろう

歌のすがたをした

もはやぬけがらでさえないもの

 

はじめて

きいたときの

歌を

そのひびきを

ききたい

 

そうして

わたしは

あなたに

会いたい

 

 

風のタペストリー

武満徹レゾナンス13「未知」


2000.10.13

 

 私は自分の文章において「自然」と言うーー私にとってはひとつの呼びかけのようなーー言葉を多く用いるが、それは形容詞でもあり、副詞句でもあり、また名詞であって、その「自然」は全体的には動的に私に働きかけてくるところの想像的な自然と言うことができる。私にとっては東洋音楽も西洋音楽も自然な状態で極めて想像的(イマジナリー)である。

 現代作品の多くは潔癖に「過去」を避けようとしているようにみえるのだが、私は「過去」を怖れることはない。新しさと古さの両方が私には必要なのである。だが、「未知」は、過去にも未来にもなく、実は、正確な現在のなかにしかないのだろう。(…)

 人間の周囲にある自然とか、世界のすべては無名に等しい状態にある。それらを人間が名附けたり呼びかけたりするときに、そのような無名のものが、人間のものとしてよみがえる。同時に人間と同化する。私たちが一本の樹を「樹」と名附けるときに、美はその最初の姿を現わす。人間がその樹を伐ったり、削ったりする行いのなかで、美はますます明らかになってくる。木で家を建ててそこに住むときに、美は日常そのものの相貌をしてくる。

(武満徹「音、沈黙と測りあえるほどに」より「十一月の階梯」「武満徹著作集1」(新潮社)よりP191-193)

 

私は知らない

来し方行く末を

 

私はむしろ時を

垂直に屹立させる

 

私は自らを

垂直に屹立させる

 

すると

そこに私がある

 

私は世界を知らない

名づけえないがゆえに

 

私は呼びかける

するとその名が現れる

 

私はその名となる

するとそれは歌いはじめる

 

 

風のタペストリー

武満徹レゾナンス14「完結」


2000.10.14

 

 ひとつの音楽作品がそこで完結したという印象を与えてはならない。周到に計画された旅行と、あらかじめ準備されない旅行とではそのどちらが楽しいでしょうか?

(武満徹「音、沈黙と測りあえるほどに」より「十一月の階梯」「武満徹著作集1」(新潮社)よりP195)

 

生まれた

生きた

老いた

死んだ

それで完結・・・

しはしないのだ

 

いつでも始まりであり

いつでも終わりである

つねに生まれ生まれ生まれ

つねに死に死に死んで

 

種であり花であり実である存在として

エッシャーのだまし絵のようでもなく

メビウスの輪のようなねじれた循環でもなく

完全な宇宙がさらに展開していく物語のなかを

無限音階を上昇していくように

 

十月の青い空に

まるごと

ゆっくりととけていく

私という旋律

 

 

風のタペストリー

武満徹レゾナンス15「他者」


2000.10.16

 

 正しい論理を構築するにあたっては、なによりもまず<他者>を正しく認識することから始められなければならないだろう。特別の結論を用意しているわけではないが、教育とは<他者>を正しく知らしむべきものである。

 たとえば、この地上には多くの異なった音楽が存在するということ。宮廷の雅楽よりも古い歴史をもった音楽、そして今日うまれたばかりのものまでが、平等の価値として私たちの前にそれぞれに異なった様相を見せていること、を知らせるべきものである。

 音楽は、人間がそれぞれの個別の環境においてつくりだして行くものだが、それは、自然と同じように自己を誇示しないものだ。私は音楽についてだけ言うのだが、音楽は国家意識などとかかわってはならない。限られた紙数のなかではとても言いつくせないが、音楽においては美的価値基準などありようもなく、またそのような美は避けなければならない。

 日本は今日世界第二位の経済国であることを誇っているが、再び盲の道を歩いているのではないか?

 富士はたいへん美しい山だがその美しさを私が好きな浅間の美しさとはかることはできない。私の短い学校生活をふりかえると、そこではななんと「一番意識」をうけつけられたことだろう。

 日本一とか世界一とかいうようなことを、私は恥の感覚をともなわずに思うことはできないのだ。

(武満徹「音、沈黙と測りあえるほどに」より「恥の感覚」「武満徹著作集1」(新潮社)よりP204-205)

 

きみがいちばんきれいだ

というときみは

なぜいちばんだなんていえるの

と反論する

 

客観的とはいえないけれど

(科学とか学問っていうのは

そういうのが好きだけど)

ぼくはそれなりに証明できる

なぜっていちばんなんだから

 

この証明はどんな論理よりも

しなやかで強い

この盲はどんな視力よりも

深くきみを見ている目だ

 

そして

だれとも比較なんかしていないし

恥じ入る必要もない思いなんだ

 

 

風のタペストリー

武満徹レゾナンス16「悲哀」


2000.10.17

 

 これは、私ひとりの感じ方というものであるかも知れないが、私には、音楽のよろこびというものは究極において悲しみに連なるものであるように思える。その悲しみとは、存在の悲しみというものであり、音楽することの純一な幸福感に浸るとき、それはさらに深い。

 私は、自分の深部において悲しみに目覚めながらも、魂が高揚するような祝福の裡に在った。少なくともその時の私は、ガムラン音楽を研究するために訪れた一人の異邦人であることを忘れていた。

 私は日本音楽(邦楽)に抱いている感情は、それを客観化して文に表わすことは不可能なことであるが、重苦しいambivalentなもので、そうした感情を育んだ歴史との関わりをなおざりにしては解明しえないものである。私は、邦楽から、西欧音楽とは異なった多くの音楽的感動を受けたし、また、その音色感は比類なく高いものであることを疑うものではない。しかしスンダの山間での、あの魂が高揚するような祝福された時間=空間と同質のものを経験としてもったことがあったであろうか、と思う。

 私は、やや不器用に邦楽と呼んだが、主としてここで論じられているのは、町=都会の性格が強い芸術的伝統音楽のことであって、それに対して村の音楽である民謡等の民族的な音楽がある。この二つのものを念頭に置いて、なお、率直な感想を記せば、能楽と雅楽のきわめて例外的な一部を除いて、私は、日本音楽からあの時のような全的な<解放>を経験したことは無い。

 私は、日本の音が遂に至る地点は<無>であるように思うが、それはあの<解放>とは同質ではあく、あるいは全く逆のことであるように思える。いささか直観的な表現になるが、邦楽のなかでの音は、その所属する音階を拒むもののようである。一音一音は磨きこまれ、際立つことで、反って音階の意味は希薄になり、それによって音そのものも無に等しく、自然の音ーー固有の音によって充たされていながら全体としては無であるところの音ーーと見分けがたい状態にまで近づいて行く。

(武満徹「樹の鏡、草原の鏡」より「Mirror」「武満徹著作集1」(新潮社)よりP233-234)

 

「哲学の動機は深い人生の悲哀でなければならない」

といった哲学者がいて

「音楽のよろこびというものは究極において悲しみに連なる」

といった音楽家がいて

 

みずからを

無へと磨きこむ

思索

そして音霊

 

否定を媒介とする

という

美意識に貫かれ

よろこびを

悲しみであとづける

 

私は

私でないことによってのみ

私である

という逆説を生きる

哲学

 

音は音でない

ということによってのみ

音である

という

無を生きる

音楽

 

否定を否定するのではなく

否定そのままが絶対肯定になる哲学の動機を!

連なった悲しみが

そのまま深いよろこびになる音楽を!

 

そんな夢想をよそに

私もまた

ときに

無の間のなかに

みずからを置かざるをえない

まるで悲哀のように・・・

 

 

風のタペストリー

武満徹レゾナンス17「鏡」


2000.10.18

 

 かつて、私は西欧という一枚の巨大な鏡に自分を映すことが音楽であると信じていたのだが、邦楽を知ったことで、鏡は一枚ではなく他にも存在するものであることに気付いた。

 やがて西欧という巨大な鏡の崩壊する音が、私の耳にも響いてきた。私は、現在このような文を書きたどってきて、思考は一向に整えられず反って複雑に錯綜しているのを感じるのだが、それは、自分が単純な二者択一の論理に頼ることができないためである。私にとっては、西が駄目なら東というようなことは考うべくもなく、それに、西欧文明・文化の凋落の劇は、私(たち)の内部において既に起こったことなのである。

 私にとって、それは「発見」と呼ぶこともできるが、非西欧音楽の異種の草原の鏡は、巨大な西欧の鏡とは本質的に異なる原理をもつものであり、それら多くの鏡が微妙に反射しあう光の屈折の中に身を置いて、私は自分の聴覚的想像力を更に新たなものに鍛えたいと望んでいる。その後で、夜に向かう黄昏の底にあってなお残照に映える巨大な鏡の砕片のひとつひとつを、私は再び自分の内部に一枚の鏡として組み立てたいと思う。それは、たぶんかつての巨大な鏡とは別のものであろう。しかも、それがどのようなものであるかをいま予想することはできない。

 私は、河を遡るために冒険を試みようとは思わず、また、この停滞に身を任せようとはさらに思わない。共通に語る言葉ももたない異なったものが、互いに触れあうことができるかくれた境界は、何処かにあるはずである。そこへ至る路を見出すためには一枚の鏡ではなく多くの鏡に自分を投射してみることが必要であろう。東と西、というような雑駁な思考操作を追いやるためにも、束の間は、自分自身を見失うほとの光の乱反射に身を曝してみることだ。径は各個の内部にやがて細い血管のように現われて、いつかそれらは偉大な創造力によってひとつの大きな流れへと収斂されるであろう。

 インドネシアを旅行して、同じアジア地域にありながら、邦楽とガムラン音楽との差異に深さに私は衝撃を受けた。多くの共通の要素を有しながらも、音楽として迫るものは違う。私が直観的に感じたものは何であったろうか?

(武満徹「樹の鏡、草原の鏡」より「Mirror」「武満徹著作集1」(新潮社)よりP235-236)

 

鏡の迷路で数限りない自分に出会う

ふりむくとそこには無限の合わせ鏡のなかで

ふりむいている無限の私がいる

私のなかの私のなかの私のなかの……私は

いったいどこにいるのか

 

鏡は意識

その合わせ鏡のような意識の迷路で

私は私を見る私との

無限のすれちがいのなかを

すれちがいのままに存在する

私という意識を意識する私という意識を意識する私……

その眩暈のような時間を生きる

 

鏡を割ろうとする私がいる

大きなハンマーをもって

次々に合わせ鏡を割り続ける私

鏡に映る私が歪な破片になって散乱していく

わ・・たしの・・・わた・・・しの・・・

やがては迷路の外に出られるかもしれない

そういう思いさえも破片のようになってゆく

 

やがて粉々になったはずの私のなかから

静かに立ち上がってくる私がいる

そう

目を閉じてみるんだ

目を閉じていることさえ忘れて

耳をすませてみるんだ

耳をすませていることさえ忘れて

・・・・

そうして私のなかを貫いていく私の流れのなかで

こみあげる笑いがどこまでも響き渡ってゆく

 

 

風のタペストリー

武満徹レゾナンス18「関係」


2000.10.20

 

 友が言うように、音楽は祈りの形式であるとすれば、人間関係、社会関係、自然との関係、(そして、神との関係)すべてと関わる関係への欲求を祈りと呼ぶのだろう。たしかに私は、音楽がそこに形をあらわすような関係というものを待ちのぞんでいる。

 こうした内面の問題では、バッハの音楽もジャズもガムランも、私にとっては実は区別して考えられるものではない。しかし、文明の質と性格の違いのなかでの、個の在りかたと、そこに生じる関係については考えなければならないだろうと思う。

 私は日本人であり、それでかなり特殊な視点からこのような問題を考察していると思うのだが、またそれが思考を煩瑣にしているのでもあろう。殊に日本の伝統音楽について考えるときは、かなり屈折した回路に自らを追いやっているようにも感じる。反面では不自然でもあるなと思いながら、しかし避けられないことなのだと思う。

 私は前に、邦楽のなかでの音は、その所属する音階を拒むもののようである、と書いたが、これはいま改めて書きなおせば、邦楽は関係のなかに在る音楽ではなく、反ってそうした関係を断つところに形をあらわすのだ、と言えるようにも思う。西欧の天才性とは全く異なった意味において完結する個人芸、つまり名人芸の存在があり、しかもそれが「家(元)」や「風」あるいは「流」において閉ざされるのは何故だろうか。私はその良否を問うものではない。しかし、気がかりなことではある。

(武満徹「樹の鏡、草原の鏡」より「Mirror」「武満徹著作集1」(新潮社)よりP257)

 

ノーバディへ捧げる音楽のことを騙ろうか

ときには

 

それはあなたに呼びかける歌でもなく

神へと捧げる祈りの音楽でもなく

私は世界のノイズとなって

ノーバディの場所で

我を滅して風となる

 

そこに至福はもはやない

私がそこにいないがゆえに

 

ノーバディへ捧げる音楽を

いったいだれが捧げようというのか

その謎の前で

音は垂直に立ち昇り

虚空のなかに裏返る

 

ノーバディへ捧げる音楽は

ノーモアの旋律で

ノーウェアで奏でられ

やがて

ノーヴェンバーの階梯を飛翔してゆく

 

 

風のタペストリー

武満徹レゾナンス19「谺」


2000.10.23

 

 異なった声が限りなく谺しあう世界に、ひとは、それぞれに唯一の声を聞こうとつとめる。その声とは、たぶん、私たちの内側でかすかに振動しつづけている、あるなにかを呼びさまそうとするシグナル(信号)であろう。いまだ形を成さない内心の声は、他の声(信号)にたすけられることで、まぎれもない自己の声となるのである。

(武満徹「樹の鏡、草原の鏡」より「暗い河の流れに」「武満徹著作集1」(新潮社)よりP266)

 

わたしは あなたに ふれる

ふれることで じぶんに ふれている

 

わたしは あなたを よぶ

よぶことで じぶんを よんでいる

 

じぶんを めざめさせる しぐなるに

じっと みみを すませれば

 

ほら わたしの こえが ふるえている

わたしの こえが うたっている

 

 

風のタペストリー

武満徹レゾナンス20「信号」


2000.10.23

 

 他者との関係ないし音楽を想像することは私にはできないが、それでも音楽は<社会>という単位においては、ほんとうのすがたでは現われることがないもののように思う。音楽は人間の孤独な感情に結びついたものであり、それゆえに、社会との相関においてその意味が問われるのである。

 音楽的感動、音楽的体験はつねに個人的なものであり、音楽は、生の<開始>のシグナルとして私たちを変える。そして、それらの無数の個別の関係が質的に変化しつづけ、ついに見分けがたく一致する地点に社会はあるのではないか。社会は、自己と他とが相互に変化しつづける運動の状態として認識されるべきであると思う。

 私は、生きることにおいて信号の役割をはたしたい。私にとって音楽はそのために必要な唯一の手続きである。

(武満徹「樹の鏡、草原の鏡」より「暗い河の流れに」「武満徹著作集1」(新潮社)よりP267-268)

 

耳は目のように閉じることができないのに

だれもなにも聴こうとしないのはなぜ

 

世界をほんとうに聴くことができれば

そのことで世界を変えることができるのに

そして私も変わっていくことができるのに

 

あなたをほんとうに聴くことができれば

そのことであなたを変えることができるのに

そして私も変わっていくことができるのに

 

私の器に世界を静かに静かに注ぎ込み

じっくりと孤独のなかで熟成させてゆく

 

そのひっそりとした

それでいて激しい変容のなかで

私はあなたへと近づくことができる

あなたと歌うことができる

 

その限りない祝福の旋律に

私はじっと耳をすませてみる

するとそこに

世界がほんとうの姿で現れる

 

 


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