風のタペストリー

武満徹レゾナンス1-10

(2000.10.5-2000.10.10)

武満徹の言葉と絶えずレゾナンス(共振)すること。

その音楽に耳を澄ませ、ぼくという器にそれを響かせていくように。


●武満徹レゾナンス 1「港」

●武満徹レゾナンス2「トリステ」

●武満徹レゾナンス3「矛盾するものにさえ」

●武満徹レゾナンス4「呼ぶ」

●武満徹レゾナンス5「沈黙」

●武満徹レゾナンス6「分析」

●武満徹レゾナンス7「石」

●武満徹レゾナンス 8「遊ぶ」

●武満徹レゾナンス 9「コピー」

●武満徹レゾナンス 10「発音」


 

 

風のタペストリー

武満徹レゾナンス 1「港」


2000.10.6

 

チャンス・オペレーション号は遭難はしないが漂流している。きみの帆船には感度のいい計器がある。ぼくの船はまだ組み立てられてもいない。錨をおろしたまま港に在る。停まっているやつもある。速力をあげて突っ走るやつもある。しかし、船は港から出て港に帰るべきなのだ。宿命論とは無縁な優しい自然のこととして……。港は自分の内部だけにしかない。まったくこれは初歩的な認識にすぎない。だがこのことで海の広さがわかるのだし、海の狭さが理解できるのだろう。

ぼくはぼくの時間を、自分の港の地点をあきらかにすることと、仕上がらぬままに朽ち果ててしまうかもしれない船のためにあてる。しかし、きみは絶えず新しいヴィタ・ノオヴァ号を建設することだ。きみ自身の港で。きみ自身の手で。

(武満徹「音、沈黙と測りあえるほどに」より

「Vita Nova」「武満徹著作集1」(新潮社)よりP22)

 

ぼくの船。

ぼくの港。

海は広い。

広いことさえわからないほどに。

 

ぼくはぼくのヴィタ・ノオヴァ号を建設する。

いや、その設計を試みている。

ぼくの港で。

 

ぼくの港はいったいどこにあるのか。

それをあきらかにしなければならない。

ぼくはどこに航くのか。

どこに航き得るのか。

それをあきらかにするためにも。

 

いや、そうではないだろう。

ぼくの港がどこにあるのかを

あきらかにすることではじめて

ぼくの海をつくることができるということなのだ。

 

ぼくの海。

広いか

それとも狭いか。

 

ぼくはぼく自身の手で

ぼく自身の港で

ヴィタ・ノオヴァ号を設計し建設する。

おそらくは仕上がらないままに

絶えずそれを試み続ける。

 

「岸辺のない海」を航行する

チャンス・オペレーション号のことを想いながら・・・。

 

 

風のタペストリー

武満徹レゾナンス 2「トリステ」


2000.10.6

 

 ピアノという楽器には悲しい思い出がある。

 終戦から二年して、私は駐留軍のキャンプに働くことになった。音楽によって自分は生きたいのだと家人に告げた時から、私は生活のいっさいを自分の手でしなければならなかった。学校からは卒業とも退学ともつかないままに遠退いていた。階段教室の埃っぽい床におかれてあったピアノは、不謹慎な生徒である私をかたくなに拒み続けた。鍵をこわすこともおっくうになり、学校はもうどうにもならないほどに私を嫌い、私もそうなっていった。生活していくことは容易ではなかった。労働は不慣れだったし、私の肉体はそのことにむかなかった。

 いくつかの理論書を読み、いくつかの作品を書いた。しかし、私はピアノをもたなかったので、それがいったいどんなに響くものなのかを想像できずにいた。暗算するように、みすぼらしい音符のひとつひとつを頭のなかで追っていった。

(武満徹「音、沈黙と測りあえるほどに」より

「ピアノ・トリステ」「武満徹著作集1」(新潮社)よりP24)

 

自分は何によって生きたいのだろう

皆目わからぬまま

私は生活のために働かなければならなかった

 

決して私にむいているとはいえないだろう仕事を夜毎こなし

卒業できるのかどうかさえ定かではない学校の傍らで

私は大音響のジャズの暗がりのなかで多くの時間を過ごした

 

私は自分で自分を見る視線と

自分そのものであるものとの間の

差延の暗がりを生きていた

 

「沈黙しなければならない」であろう

「語りえぬもの」を抱えながら

それならば騙るしかないではないかと

「世界劇場」の上を戯けながら演じようとした

 

私のなかの可能性としての

みすぼらしい音符たちよ歌え!

そうして私はそれがどんな音楽になるのかを

蜃気楼をみるような視線で追っていった

 

 

風のタペストリー

武満徹レゾナンス3「矛盾するものにさえ」


2000.10.7

 

 音楽が、人間の発音する行為と、素朴な挙動のなかから生まれたことは事実なのだ。しかし、ぼくたちは歴史の中で、便宜的な機能の枠の中でだけ<音>を捉えようとしていた。ぼくの周囲にある豊かな音は、それらは、ぼくの音楽の内部に生きなければならない。ぼくは勇敢にそれをすべきだろうと思う。

 異なったものに、また時としては矛盾するものにさえ、調和を与えるということは、われわれに「生きる」すばらしい道を歩かせる訓練なのだ。

 <音>は、一つの持続であり、瞬間の提出である。その意味で、便宜的な小節構造の上に成り立つ形式は虚しい。

(武満徹「音、沈黙と測りあえるほどに」より

「ぼくの方法」「武満徹著作集1」(新潮社)よりP30-31)

 

ぼくは聴く

すると

ぼくのなかで

音が生まれる

 

ぼくはさらに聴く

するとそれは

ぼくのなかで

すでに生まれていた音たちと

ときには

争いを生み出してしまう

 

ぼくはまた聴く

聴かないことは

生きていないことだ

そうしてぼくは聴く

 

やがて

ぼくのなかで

さまざまな波紋が生まれ

互いに干渉し矛盾し調和し

ありとあらゆるかたちとなり

それがぼくになる

 

ぼくは

その音たちとともに

きみに語りかけてみる

それはまだきみでないぼくの音

ときに不協和音となって響く

まるで愛のように

やさしくあるいは妖しく

思いがけず境界を侵すものとして

 

ぼくは聴く

すると

ぼくは

ぼくでないものへ

そして

ぼくでないものから

ぼくを創る

 

 

風のタペストリー

武満徹レゾナンス4「呼ぶ」


2000.10.7

 

 いわゆる<表現>がもつ虚偽についての疑いをそのままにしてはなるまい。それはけっして明らかにされるものではないが、作家がそれとむかいあうことが、表現といういわば足萎えの行為を生命的なものとする。表現のはじめは、まず、表現することが耐えられない自分を確認することなのではないかーー。表現とは、世界が自分を意味づけるのではくて、自分が世界に意味づけを行なうことだ。そうすることで、世界のなかにある自分を確かめてみる。

 五本の指に名附けることを表現とは言わないだろう。つかみ、ゆびさすことがそうだ。そして、指は手であり、手は腕であり、腕はおのれとよぶものだ。私はいつでも手でしかないが、まちがいなく手は私なのである。私を生かすものがあるが、私を生かすのは、つまり私かもしれず、私は手にすぎないのだから、それが樹でないと言うことはできない。

 表現することは、けっして、自分と他と区別することではない。

 世界はいつでも自分の傍らにありながら、気附く時には遠くにある。だから世界を喚ぶには、自分に呼びかける他にはない。感覚のあざむきがちな働きかけを避けて自分の坑道を降りることだ。その道だけが世界の豊かさに通じるものなのだから。

(武満徹「音、沈黙と測りあえるほどに」より「自然と音楽」「武満徹著作集1」(新潮社)よりP47)

 

それを名づけてみる

だが名づけたとき

いままですぐそばにあったはずなのに

それは遠くなる

 

その名を呼んでみる

私の名づけたその名を

すると

私のはるか内で

それに応える声がする

 

私はあなたを呼ぶ

だが呼んだとき

いままですぐそばにいたあなたが

はるか遠く見えなくなる

 

そして

こんなに近しいはずの

あなたがまるで

いちども会ったことのない

あなたになる

 

私はあなたを呼ぶ

まだ見ぬあなたを

こんなに近しいはずのあなたを

すると

私のはるか内で

あなたが響いてくる

こんなに近しくあなたが

 

 

風のタペストリー

武満徹レゾナンス5「沈黙」


2000.10.9

 

 沈黙に抗って発音するということは自分の存在を証すこと以外のなんでもない。沈黙の坑道から己れをつかみ出すことだけが<歌>と呼べよう。あるいはそれだけが<事実>なのだ。芸術家はなににもまして、この事実に心を向けるべきだろう。そうでなければ芸術の現実性という問題もうかんできはしない。そういう意味で、物をリアルにひきうつしているなどということは卑屈なのだ。芸術家は沈黙のなかで、事実だけを把りだし歌い描く。そしてその時それがすべての物の前に在ることに気づく。

 これが芸術の愛であり、<世界>と呼べるものなのだろう。いま、多くの芸術が沈黙の意味を置き去りにしてしまっている。

(武満徹「音、沈黙と測りあえるほどに」より

「自然と音楽」「武満徹著作集1」(新潮社)よりP53)

 

リアリズムの卑屈さのまえでは

歌は沈黙せざるをえないだろう

歌が歌であるために

 

歌は<事実>でなければならぬ

そしてその出自は沈黙

沈黙をなくした歌は

皮肉なことに癌細胞のように増殖する

 

なぜ歌うのか

そう問うことを避け

沈黙を恐れるがゆえの歌は

ますます<世界>から離れてゆく

 

 

風のタペストリー

武満徹レゾナンス6「分析」


2000.10.10

 

 扉が閉まった。

 かりに、ぼくが、その音に苦しみを聴いたところで、それはオッシロスコープには青白くひかるただの波形でしかない。音も色彩も、物理学の上では、それらの意志を無視した波長として分析されてしまう。としたら、ぼくが跫音に苦しみを聴き、車両のきしむ音に痛みを感じるのは馬鹿げたことだろうか。生理学と心理学によれば、これとても分析は容易なのだろう。しかし、それでは、かつて、平均率や図式的な小節構造が算術的であったということに対して、やや数学的になったというにすぎない。<音>にたいする新しい認識は、こういう現象的な事実によってなされるものではない。もちろん、そうした事柄を知ることは大切だ。だが、分析がそれに留まったのではその意味はない。

 芸術は壁の内側をこまかく仕切ることで、果たして何を得たのだろうか?

(武満徹「音、沈黙と測りあえるほどに」より

「自然と音楽」「武満徹著作集1」(新潮社)よりP54-55)

 

声がする

どこかで

そっと

ああ

あなたの声だ

ぼくのききたかった

 

その声を録音し

波形を分析することも

できるだろう

けれど

それは

もはや

あなたの声ではない

 

あなたの声がききたいのだ

あなたの声が

あなたが

 

あなたの声は

ときに歓び

ときに哀しみ

ときに静かに渡り

ぼくの耳を

ぼくのからだを

ふるわせる

 

しかし

もはやあなたではない

あなたの声のデータは

あなたの幻影となって

歩きはじめる

 

現と影の違いが

わからなくなってゆく時代

あなたがあなたでなくなっても

だれも気づかないかもしれない時代には

地上の人間はひとりひとり

人間モドキに代わられてゆき

やがて現がすべて影になってしまう

 

あなたの声がききたい

ぼくの深みにとどく

あなたのその声が

はるかなあなたに

とどくために

 

 

風のタペストリー

武満徹レゾナンス7「石」


2000.10.10

 

 私は昔から石がすきだ。黒いつやをだす小石を何と呼ぶか知らぬが、それは殊更好きだ。真白いのもすきだが、黒いほうが重みと深みを感じさせていっそう石らしいと思う。それに、私は、石ishiという音が好きだ。吐き出すようにそれを言うと、私はあらためて石は強いものだと感じる。私は、石という言葉は意志という意味ではないかと思う。達磨が壁に向かって石に化したように、石は存在に耐えている。耐えることしかないのである。

(武満徹「音、沈黙と測りあえるほどに」より

「自然と音楽」「武満徹著作集1」(新潮社)よりP59)

 

いし

い・し

 

その存在のまえに

わたしは立ち

その肌に

そっとふれてみる

 

まるで永遠のような

その

い・し

のまえに

わたしの無常を

添わせてみる

 

するとわたしは

永遠とともに

天空へと昇っていく

 

そうして

無常と永遠が

大いなる沈黙のなかで

初源に帰還してゆく

 

 

風のタペストリー

武満徹レゾナンス 8「遊ぶ」


2000.10.10

 

 ぼくは子供に訊いてみた。ーーきょう一日で何がいちばん楽しかった

<たくさん遊んだことさ……>

ーー何がいちばんつまらなかったーー

<あんまり遊ばなかったこと……>

(武満徹「音、沈黙と測りあえるほどに」より

「吃音宣言」「武満徹著作集1」(新潮社)よりP68)

 

きょうはどれだけ遊べた?

 

まいにち

自分にそう問いかけ

自分に言い聞かせてみる

 

そうしなければならないほどに

いちにちいちにちが

あまりに貧しくなってしまい

ときには

そう問うことさえ

できなくなってしまったりもする

 

あなたのなかにあったはずの

あののびやかな笑い声は

いったいどこにいってしまったのか

 

空にむかって

両手をひろげ

眉の上のむつかしい皺をやめて

あなたのなかにつめこんでしまった

ひとの視線や言葉たちを

みんな捨ててしまおう

 

きょうはどれだけ遊んだ?

えぇっと…

(両手をひろげて)

いっぱい!

 

そういえるように

 

 

風のタペストリー

武満徹レゾナンス 9「コピー」


2000.10.10

 

 ぼくはいま、活溌に行なわれている言論のなかで、言葉の空虚さを今更のように感じて憂鬱になっている。言葉は、いつか肉体を離れてよそよそしい。誰がしゃべっても同じようで、角刈もリーゼントもいっしょだ。<暴力による民主的法的秩序の破壊>なんて、どっちの側でも言っている言葉なんだ。(…)

 他人に自分の意志を伝えようとする時にこそ、自分の話し方でしなければいけないのに、たいていはそんな場合に没個性のきまったスタイルでやってしまう。

(武満徹「音、沈黙と測りあえるほどに」より

「吃音宣言」「武満徹著作集1」(新潮社)よりP68)

 

あなたはだあれ?

 

いつのまにか

コピーだらけ

コピーを生き

コピーを話す

コピーどうしが言い争う

 

違いがあるとすれば

白か黒かの違いだけ

白でなければ黒といい

黒でなければ白という

どちらも同じスタイルなのに

 

いっしょでないと

こわいかい

反対でないと

気がすまないのかい

 

いったい何をコピーしたのか

それさえも

だれにもわからなくなってしまうほど

コピーを生き

コピーを話しつづける

それ以外の自分は

いなくなってしまったかのように

 

あなたはいったいだあれ?

もはやあなたではないだれか

だれでもないあなたの影

いないいないばあのお化け

 

そんなお化けをやめたとき

あなたに残るものだけを傍らに

耳をすませてみないか

話しはじめてみないか

 

はじめはとまどうかもしれない

沈黙ばかりかもしれないけれど

そのかぎりない沈黙からこそ

なにかが生まれるかもしれないから

 

 

風のタペストリー

武満徹レゾナンス 10「発音」


2000.10.10

 

 人間の発音行為が全身によってなされずに、観念の嘴によってひょいひょいとなされるようになってからは、音楽も詩も、みなつまらぬものになっちゃった。音楽も詩も、そんなに仰山ありがたいものではない。くしゃみとあくび、しゃっくりや嗤うことといったいどこがちがうのだろう?もし異なるとしたら、それはいくらかでも精神に関係するということだけだろう。(…)

 音楽は、足なえの身を唄に託す吟遊詩人のような、ひよわい発想でしてはならない。夢や憧れの領域だけに足を停めてはならない。楽曲は、おおむねちゃちな弁証法と、他愛ない図式の上に平面的に構造されている。論理的に流暢なものほど尊ばれるのは何故だろう。不可解である。

 音と言葉を一人の人間が自分のものにする最初の時のことを想像してみたらいい。芸術が生命と密接に繋がるものであるならば、ふと口をついて出る言葉にならない言葉、ため息、さけびなどを詩と呼び、音楽と呼んでもさしつかえないだろう。そうした行為は、生の挙動そのものなのだから……。それは論理の糸にあやつられるまがいものではなく、深く<世界>につらなるものであり、未分化のふるさとの豊かな歌なのだ。

 音や言葉に、そうした初源的な力を回復しなければならない。音楽も詩もそこから出発するしかないように思う。発音するという行為の本来の意味を確かめることからはじまる。

(武満徹「音、沈黙と測りあえるほどに」より

「吃音宣言」「武満徹著作集1」(新潮社)よりP70-71)

 

あ!

 

それはどこからくるのだろう

それは意味をこえたはるかな力で

どこか知らない国からやってくる

 

それはわたしのことばだけれど

わたしのことばではない

それはわたしが生まれるよりもずっとむかしから

わたしをつくりだしてきたことばなのかもしれない

 

わたしは

なぜ

あ!

といえるのだろう

 

その謎のまえで

わたしは

おおきなあくびをしてみる

ときには怒ってみる

 

あ!

 

そういってみるだけで

わたしのなかで

なにかがひびきはじめる

それはいったいなんだろう

 

びっくり、なのか

しまった、なのか

すごい、なのか

 

あ!は

そんなわたしにもかかわらず

わたしへとどけられてくるのだ

 


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