「武満徹を語る」レゾナンス

6 割れ鏡


2007.4.27.

   ストルツマン 武満さんは私に「自分の人生はまるで鏡のようだ、だ
   けどひび割れている。私の人生にはいろいろなパーツがあって、それ
   がきちんと見えるものもあれば見えないものもある。ほんとうにいろ
   いろな角度から見たものが集まって、私の人生になっている」という
   ようなことをおっしゃっていました。
   (…)
   私自身、彼の音楽のことを非常に大切に思っています。彼は私の音を
   いつも聴いてくださいました。彼はほんとうに人生の中で、私だけで
   はなくほかの方々にも非常にオープンな方でした。私の家族もそのこ
   とを知っています。私も、彼の「壊れた鏡」のいろいろな側面を見せ
   ていただきました。そういう関係があってこそ私は自由になれたので
   す。譜面に書かれた音符を再現する、まねをするということだけでは
   なくて、実際に彼の声になることができたのです。それは私にとって
   も、彼の声、そして自分の声を表現できる、これはこれは大きな大き
   な自由であります。それでまた。だからこそ自分自身の声も魂も発す
   ることができます。
  (『武満徹を語る15の証言』小学館/2007.4.2.発行
   「第10章 グラフィック・デザイナー・粟津潔さんに聞く」より)

割れ鏡のように自由だ
そんなことを嘯いてみる

ただの真似っこだけじゃないんだと
かがみのまんなかには「が」があって
「かみ」を結んでいるのがそれなのだと
「かみ」は「火水」でもあって
むすぶことのできそうにない
「火」と「水」を結ぶことができるのだと

でもそれはちょっとしたシャレでしかなくて
自分の顔がそのまま映ってしまい
喜怒哀楽なんかが見えてしまうというのも
あまりみたくもない光景なものだから
割れているくらいのほうがちょうどいいのかもしれない
右手をあげれば左手があがるというのにも
どこかで苛立ってしまうというのもあるのだが

どちらにせよ
私は一枚の鏡だなんて言えるわけもない
私にはいろんなものが映ったり映らなかったり
映したくても映せなかったり
映っているはずなのに自分では見えなかったり
割れ鏡のように自由な私は
自分のなかにぽっかりあいた空所を
それなりに楽しんでみたりもするのだ