「武満徹を語る」レゾナンス

5 唖然


2007.4.16.

   大原 最近は唖然が少なくなっちゃった。
   粟津 そうですね。唖然が少ない、だからアカデミックすぎちゃうん
   です。
   大原 そう、お勉強が多すぎて、唖然とする時間がないんです。感動
   はちょっとお行儀がいいんですけど、唖然というのはいいですね。感
   動するのも忘れてしまうぐらいボーッとして唖然とする。《水の曲》
   を聴かれたときも、やっぱり唖然とされましたか。
   粟津 やるなあ、と思ったわけ。もう何ともいえないんですよ。ポキ
   ーン、カーンってホールに響くわけ。それが何ともいえない、言葉を
   失うっていうか。そんなに長い曲じゃないのにね。細部に神が宿ると
   いう世界だよね。小さいものの一つ一つに神が宿るってそういう世界
   だね。

  (『武満徹を語る15の証言』小学館/2007.4.2.発行
   「第10章 グラフィック・デザイナー・粟津潔さんに聞く」より)

いちばんはじめは
いまここにじぶんがいることが驚きだった
だから生まれてすぐにおぎゃーと泣いた

その驚きはじぶんがなぜここに
なにもできずにいるのだろうという
憤りと悲しみ
そして不安いっぱいの期待感だった

そのうちに
すべてはあたりまえになってしまう
まるで世界が整理棚に収まってしまったかのように

それは恐れを封印するための防御にすぎないのだった
だからみんなで手と手をつないで
あたりまえを複製しあうことを
よく生きることだとするようになった
わからないものをいろんな制度におまかせにして

死だって制度にされた
でも自分が死を迎えようとするとき
その制度はあまり役にたたなかった
それはじぶんが死と無関係だと思えるひとのための制度だったから

わけがわからないものに出会ったとき
ひとはわけがわからなくなる
これはとほうもなくいいことだ
わけなんかでっちあげにすぎないのだから

でもそのとき
でっちあげを拝んで
ありがたがっていることではすまない
かわりのでっちあげに逃げることもできない
ただ唖然とするだけ

ところがわからないものは
すぐにわかったものにされ
唖然という感動を求め
ひとが集まって来たりもする
それを教えようとするひとさえもが現われる
そしていまここにじぶんがいることが
ますます深いヴェールに隠されてしまうことになる