《往還》
2014.8.30

ただいま
名づけられぬものが
おかえり
名づけられぬものへ

ただいま
おかえり
永遠から永遠へ

いってきます
名づけられぬものが
いってらっしゃい
名づけられぬものへ

いってきます
いってらっしゃい
永遠から永遠へ

つかのまの
わたしという
旅のために

☆風遊戯《往還》ノート

◎「名づけられぬもの」というのは、死者でもあるし、わたしたちがいまは思い出せないでいる魂のふるさとでもある。それは、物質的に顕現している世界の垂直軸、奥行きに広がっている霊性の世界でもあり、純粋直観、純粋思考などがそこからでてきている「無の場所」でもある。

◎ベケットの描いている「名づけえぬもの」では、沈黙をおそれて、沈黙してしまえば死んでしまうのではないかと、登場人物たちは語り続けるのだけれど、結局のところ、何も残らない。モロイ、モラン、マロウン、マフード、マーフィー・・・。そういう否定的なところの濃厚な無常観に、ひとは置き去りにされてしまうところからはじめなければならないところもあるのではないかと思う。そうでないと、「個」という器がこのつかのまの世界のなかでしっかりとつくられ、焼かれすることはできないだろうから。しかし、そこで終わってしまえば、自殺のすすめ、空虚のすすめにしからない。ひとはそれを耐えることしかなすすべはない。

◎親鸞を読んでいると、ニヒリズムなのか信仰なのかというすれすれのところを飛行しているような感じを受けることが多いのだけれど、そのすれすれ感のなかで、つまりは強烈な懐疑のなかでの南無阿弥陀仏というのはむしろ説得力があったりする。

◎親鸞の思想の根本のところには、往相回向、還相回向の「二種回向」というのがあるが、今回の「往還」はそのイメージから。大海のひとしずくとしての私たちは、また大海へと帰り、またこうしてひとしずくとして還ってくる。ただ、大海へと融解してしまうのではなく、「名づけられぬもの」が「私」の顔をして、こうして生きているということをなおざりにしてはならない。つかのま、ではあるものの、このつかのまがなければ、世界は生成していかない。

◎旅は永遠から永遠へと続いていく。わたしという名づけられぬものが、つかのま、わたしという顔を現象させている。しかしそのことによって、旅は成立していく。送り出す者も迎える者も、おなじ、名づけられぬ「わたし」という永遠。