《発見法》
2014.8.13

謎のように
世界が現れる
そしてわたしも
謎のようにここにいる

まだ見ぬなにかのまえで
なにをどうすればいいのか
それさえわからない

問うことからはじめてみる
世界はそしてわたしは
問いの数だけ
そこに現れてくれるから

問うことはむずかしい
問われないときは渾沌
分かとうと穴を穿てば
合わせ鏡のまえで
みずからを映すように
問いはどこまでも錯乱していく

愛する人がそこにいるのに
愛を問えないために
出会えないままでいるように
見ているけれど見えていないところで
隠されていないものが隠されてしまう

問いを探すために
はるかな旅にでる必要はないだろう
世界はここにあり
わたしはここにいる
永遠という無限のなかで
問うことそのものが
世界となりわたしとなるのだから

問うことで樹は亭々として聳え
問うことで星は群れとなって流れ
問うことで鳥は飛翔し季節を歌う

謎のように
世界が現れる
そしてわたしも
謎のようにここにいる

 

☆風遊戯《発見法》ノート

◎「まだないもの」を見つけるために、わたしたちはこうして生まれてくるのではないかと思っている。そうでなければ、この地上生活は既知の繰り返しに過ぎなくなってしまうから。

◎「発見法」はヒューリスティックスheuristicsの訳語。「世界大百科事典 第2版」では、次のように解説されているとのこと。「〈発見〉に資する思考法ないし技法をいう。発見には,〈事実の発見〉と〈概念の発見〉と〈法則の発見〉と〈理論の発見〉の四つの層が区別される。このうち〈事実の発見〉は,レントゲンによるX線の発見などのように偶然の要素が介入することも多い。これに対し,〈概念の発見〉は,たとえば重力や電子の概念のように,それについての理論の発見と相即的であることが多い。そこで通常〈発見法〉は,主として法則や理論の発見についていわれる」。

◎「見ているけれど見えていないところで 隠されていないものが隠されている」というのは、ポーの盗まれた手紙にある「「隠したいものをあえて隠さないことによって相手の盲点をつく」探偵小説風のイメージから。見る必要のあるものは、隠されているのではなく、ただ見えていないだけだということ。けれど、見るためには、見ることそのものが創造になっている必要があり、ここではそれを「発見法」という言葉で表現している。

◎渾沌の話は、荘子の内篇の最後、第七「応帝王篇」から。人間には七つの穴があってこれで見たり聞いたりしているけれど、渾沌にはそれがない。そこで毎日ひとつずつ渾沌の身体に穴をあけていったものの、七日目になると渾沌は死んでしまったという話。

◎渾沌を死に至らしめるようなあり方で問うことは、世界をただ分裂させるだけになってしまう。主客の対立的なあり方のように、永遠や無限が失われ、いわば奥行きに隠されて見えなくされてしまうことになる。分裂的な問い、つまりはミクロの方向に向かって物質の根源を解明しようとしたり、マクロの方向にだけ向かって宇宙を無限に拡大して見ようとしたり、はたまたビッグバン的な視点へと向かったりする仕方での問いは、世界の謎も、わたしという謎も迷宮入りしてしまうことになるのではないか。

◎すべては、問うことにはじまり、問うことに終わる。答えを求め、それを教えてもらおうとしても、おそらくはどこにも行けない。ただのルーティーン的な機械のようになるだけ。答えは問うことのなかにしかないのだから。ただ単に問題意識をもつべきだというのではなく、世界創造そのものがおそらくは「問うこと」そのものにあるのではないかということ。謎のように世界が現れ、わたしも謎のようにここにいること、それそのものの奥行きのなかにすべての問いが内包され、その問いからあらゆる創造が現出しているのではないかということ。