《戦い》
2014.8.10

幾時代もの昔から
茶色い戦争続きます

戦い続けて日は暮れて
戦いなしで世は済まぬ

この世はすべて闘技場
勝った負けたで日が暮れる
赤勝て白勝て旗を振る

神々さえも戦いばかり
天使も悪魔も大騒ぎ
戦いなしじゃ収まらぬ

幾度も幾度も問い返す
戦わないためできること
それもまたもや戦いに

気づいてみれば心のなかも
戦いなしでは済まされぬ
勝ち負けなしでは済まされぬ

己に勝つためまた戦って
負けた己はどこへゆく
勝った己はどこへゆく

ギータのクリシュナ語ります
なすべきことをやりなさい
戦いながら自由のままで

見えるともないブランコが
じゆう ふじゆう ゆれてます
逆さになったりまた戻ったり

幾時代もの昔から
茶色い戦争続きます

この世もあの世も心のなかも
勝った負けたのブランコが
不生不滅とゆれてます

 

☆風遊戯《戦い》ノート

◎いうまでもなく、最初のフレーズは、中原中也の「サーカス」のフレーズ「幾時代かがありまして/茶色い戦争ありました」のパロディ。「見えるともないブランコ」も同じく。

◎戦うということが皆目わからなかったことからぼくの生は始まっているようにも思う。それで幼稚園はすぐに逃亡してしまったし、学校という檻のなかでの競争にもなじめなかった。運動会の競争でも競争の意味がわからないまま逆送したり。そのままずっと来ていたりする。もちろん、競争や勝ち負けから自由なわけもないけれど。

◎どうして争って競争しなくてはいけないのか。人と関わることで争いは起こる。ならば人と離れて暮らす以外にない。ということで、基本、心のなかでは隠遁者として、けれど生まれてきた以上はそういう逃避もできないし意味もないので隠遁しないではいる。

◎いいがげん長く生きてきて、「戦う」ということが避けられないことと、その意味もおぼろげながら見えてきたこともある。しかし、戦うことから自由であるままに戦いの渦中にいるというのは、かぎりなくむずかしい。

◎とはいえ、世の中は疑似戦争としてのスポーツやら偽善的な姿をした競争原理、露骨な競争原理などのなかで進んでいきながら、また「戦争はいけない!」と叫んだりもする。戦争なんかないほうがいいのはいうまでもないことだけれど、おそらく事はそんなに簡単なことじゃないとも思って複雑な気持ちになってしまう。

◎どちらにせよ、大事なのは、みずからのなかで、そして外で起こっているさまざまな争いについて意識的であることだろうと思う。勝った負けたという意識から自由な人はまれだろうと思うけれど、少なくとも勝った負けたの前後についてしっかり見ておくことは少しはできる。勝っても負けてもどちらも自分をそれなりの檻に閉じ込めてしまうことは多いのだろうから。喜びと悲しみはどちらにもあって、勝てばいいとは一概にはいえないところも多い。心のなかもまた同じ。己に勝つ!というときでさえ、そこには勝った自分と負けた自分がいて、どちらの自分にも自由への道を探すことが求められるだろう。とてもとてもむずかしい。

◎ギータはもちろん「バガヴァット・ギータ」。「知性のヨーガ」「行為のヨーガ」など。

◎書いた後、ふと思い出したのが、とても古いですが、水前寺清子の歌う「どうどうどっこの唄」(作詞:星野哲朗)。「勝った負けたとさわぐじゃないぜ/あとの態度が大事だよ・・・」。(ちなみに「いっぽんどっこの唄」というのは「ぼろは着てても心は錦・・・」)