《振り子》
2014.8.5

揺れている
振り子のように
しかも不規則な仕方で

揺れるならば
いっそふりきってしまえ
狂気のように
けれどその必要のないときだけに

谷から山にかけのぼり
山から谷にかけおりるように
自分のなかの極小と極大を踊れ
振り子の腕をさえ
伸ばしたり縮めたりしながら

いったいなにが揺れているのだろう
揺れながら
揺れ続けながら
自分という世界の
あまりにもちっぽけな振幅のなかで
それを見ているものがある

どんなに振れたところで
ぐるりと一回転するだけのこと
そして見つけるんだ
振り子を支えている点を
たとえそれが動いている点だとしても
揺れながらそれを見ているものを

 

☆風遊戯《振り子》ノート

◎わたしたちは、ときに狂った振り子のようになって、ただただ振れるしかないときがあります。あまりに苦しく閉塞的でどこにも行けないと思ったとき、どこにそこから逃れる道があるのか。理研の笹井芳樹副センター長の自殺報道を見てふと書いてみたくなりました。あまりうまくない表現かなとは思いますが・・・。

◎感情の訓練としては、ふだんから天にも昇るような気持ちと地に潜るようなうちひしがれた気持ちのような振幅を避けるように、というのがあって、平常心、不動心に必要性が説かれますが、ほんとうはそんなにきれい事じゃすまない。むしろ、ときにそういう天と地の振幅を自分なりの最大限に置いてみるということも大事なことじゃないかと思います。

◎逆境のときと順境のとき、それぞれに必要な魂のありようがあるわけですけど、ある意味では、逆境のときに最悪の対応をしてしまうとか、順境のときにも思い上がって馬鹿なことをしてみるということを、可能な限り「想定」できるようにしておくと、なにかのときにそれが役に立つのではないかと。

◎そういうときにいちばん大事なのは、狂ったように振れているものというのは、ほんとうは自分の中心ではないということに、少しだけでも気づく余裕なのではないかと思います。

◎そういう意味でも、ふだんから自分なりの世界観を持っているかどうかというのは大事かもしれません。多くの場合、自分のいる「場所」というのは閉じた世界なんですけど、実は閉じていないことに気づくことも大事かと。たとえば、科学者は多く「科学的でなければならない」と信じこんでいるわけですけど、その「なければならない」というのがどこから来ているのかを考えているかどうかというのはとても大事なことじゃないかと思います。ですから、自分のなかで問い返されることのない、さまざまな「なければならない」の世界のなかにまともに生きようとすると、こんなに苦しいことはない。まじめなひとほど、そこから逃れられなくなります。逆にいえば、不誠実な人は、そういう世界を利用することしか考えていなかったり。その両方から自由でいられる世界観が必要なんだろうと思います。