《さかさま》
2014.8.3

逆立ちしていることに
気づけないピエロが
笑いながら泣いている
教えられたとおりにやってきたのに

求めよ
さらば与えられん
けれど
右は左に
上は下に
求めれば求めるほど
逆のものがやってくる

教えてもらおうとすれば
じぶんで学べなくなる
健康にしてもらおうとすれば
ケアなしでは生きられなくなる
与えられるものを求めつづければ
ほんとうにほしいものがわからなくなる

群れのなかで
自分が見えなくなったピエロは
笑いすぎて泣いている
泣きすぎて笑っている

 

☆風遊戯《さかさま》ノート

◎イリイチを読みながら少し。「イリイチの基本的な考えは、発展がある閾を越えると、産業システムは目的として提供しようとしたものに反した結果をうみだしていくということにある。教育をうけるほど愚かになっていく、治療するほど病気はふえていく、速度が速くなるほど移動時間がかかるようになっていく、という《逆生産性》である。」「イリイチが言わんとしたことは、単純明快である。自律性をとりもどそう。バナキュラーな文化をとりもどろう、人間としての尊厳をとりかえそう、希望をもとうということである」。(山本哲士『文明を超える「希望」の思想 イバン・イリイチ』(文化科学高等研究院出版局/2009.12)より

◎現代の文明・文化のもっとも問題になっていると思われるのは、「自律性」がどんどん失われてしまっているということ。どんなに素晴らしく見えることでも、それらが外からやってきて、ある種のシステムや型などに従って生きていくと、自分で考えることができなくなる。免疫力も衰えてくる。日本的にいえば、「守・破・離」の「守」である「型」にしがみついていると、どんどんそれ以外のことができなくなってしまうということだともいえる。自分では目に見える権威に従っているようには感じなくても(権威や権力や主義、マスコミの情報などに自分から従って疑わないのは話にさえならないけれど)、すべてが他律的になってしまう。

◎自分で考える力は、悩むことのできる力や苦しむことのできる力でもある。養老孟司の「バカの壁」に関連した話を読んだことがある。ある講演会で自分で問いをもち考えることがまずはバカの壁を克服するためには必要だという内容の話をしたところ、会場から「どうすればそれができるのですか」という質問があったとか。こうした事例を典型的にとりだせば、それが自分のことだとは思わないことが多いけれど、世の中のほとんどのことは、自分で問いをもたないですむようにするためのさまざまなサービスに満ちていて、そのサービスをうけられるかどうかは「お金」に依存しているということがわかる。内田樹が教育について警鐘を発しているのも、教育が経済原理で動いているということにあるように思う。「その教育を受ければどのような結果・効果、つまりはサービスを受けることができるか」という発想。

◎世の中は、ほとんど末期症状のようになっていて、体制に迎合しようが反発しようが、ほとんど同じ発想にしかみえないところがある。声を荒げている多くのピュアな人たちは、発想としては「世の中をよくしたい」と思っているのだろうけれど、それらは「目的として提供しようとしたものに反した結果をうみだしていく」という発想を持ち得ていないのではないかというようにも見える。最善を求めようとして、最悪を求めてしまうということ。シュタイナー的にいえば、アーリマンとルシファーを反復横跳びしているようなものだろうか。