《世界劇場》
2014.7.27

悪夢をみている
悪夢をみつづけている
そう思ったことはないか
目の覚めるたびごとに
繰り返されるこの世界

悪夢をみているのは
いったいだれなのか
わたしという囚われ人
わたしがわたしを
閉じこめている世界

悪夢はどこにあるのか
わたしのなかか
それとも世界そのものか
世界という関数に代入されるわたし
わたしという関数に代入される世界
そのウロボロスのような合わせ鏡のなかで
悪夢は静かに踊っている

夢幻能のように
わたしは橋掛かりから現れるが
みずからがその語りを聴く者でもあり
また見所でもある
見ることで世界を変え
見られることで
みずからを変える者でもあるのだ

秘密などどこにもないのだろう
愛が隠されることなど決してないように
ただみずからの仕掛けた魔術を解いて
秘密という蜜を味わえるように
愛の不思議世界に魅せられるように
世界そのものが劇場となって
ときに悪夢を楽しませてくれるのだ

そのひとときの遊戯のために
無は有へと変容し
永遠は時間の姿をとって
めくるめくステージの上で
わたしと世界を踊らせている

 

☆風遊戯《世界劇場》ノート

◎朝起きるときにはとくに、鬱きわまりない状態になっていたりする。まさに、悪夢の世界にやってきた!という感じ。そこから抜け出すのはかなりむずかしく、最近は早起きをして音楽を聴くことからはじめることで、なんとかしのいでいるけれど、悪夢の感覚はやはり避けようもない。しかし、それまでいた夢の世界がいいかというとそういうわけでもないのがよけいに苦しい。そういう世界から脱出するのはほんとうにむずかしく、脱出しよう!という発想そのものをなんとかしないといけないのだろうとずっと思っている。今回はその発想そのものの転換から、ある意味ではよけいに救いようのない「世界劇場」になっているけれど、これこそが世界の秘密であり、愛の謎でもあるのだろう。

◎世界は劇場であるというのは、古代ローマの詩人ペトロニウスの詩句以来のもので、イギリスのエリザベス朝のシェイクスピアの世界でもおなじみの考え方。『お気に召すまま』の一節にも、「All the world's a stage.And all the men and women merely players. 」(この世は舞台、男も女もみな役者だ。)があるように。セルバンテスの『ドン・キホーテ』、カルデロンの『人生は夢』などにもこの考え方は見られるようで、この時代以来、こうした作品の登場人物の生き方の根底に世界劇場の考え方が見られるようになったのだといいます。

◎もちろん、こんかいの風遊戯でその考え方を踏襲したいとかいうのではなく、世界という謎、わたしという謎のほうに目を向けてみたい。

◎ハイデッガーに「Sein und Zeit」という有名な哲学書があって、通常、「存在と時間」または「有と時」というふうに訳されたりもしているけれど、おそらく「存在」「有」というのはきわめて主語的な論理による理解となっていて、「存在」や「有」として姿を現出してくる根底には「無」があるのではないかと思っている。もちろん「無」というのはなにもない、ということではなくて、むしろすべての根底にある「無の場所」とでもいえる西田幾多郎的な理解からのもの。その意味でいえば、「時間」もまたそれに対応した「不二」としての「間」のような意味でとらえるのがいい。

◎作者も役者も演出家も観客もすべてが「二」にして「不二」であり、それらが「存在」「有」としての「二」であるためには、それらの根源としての「不二」である「無」を必要とする。「二」は「不二」なのだ。だから、夢も現も「二」にして「不二」である。

◎ちなみに、能の主要な登場人物はシテとワキであり、観客は「見所」という。夢幻能では、シテは亡霊のようにして橋掛かりからしずしずと現れ語り踊り、それをワキの仏者などが成仏をさせる、というのようなかたちをとることが多い。しかし、それらのシテもワキも、また見所も、同じ世界劇場の「二」にして「不二」の無であり有なのだろう。