《シャバ》
2014.7.20

シャバダバダ
シャバダバダ
生きているのは
シャバダバダ
死んでいくのも
シャバダバダ

シャバで暮らせば
シャバダバダ
シャバで話せば
シャバダバダ
シャバで動けば
シャバダバダ

シャバに生まれて
シャバダバダ
シャバの迷路で
シャバダバダ
シャバで働く
シャバダバダ

シャバの渡世は
つらすぎて
バシャウマみたいに
シャバダバダ
シャバの掟に
しばられて
バシバシヤられて
シャバダバダ

シャバダバダ
シャバダバダ
それでもシャバは
シャバダバダ
一蓮托生
シャバダバダ

善いも悪いも
シャバダバダ
泣いて笑って
シャバダバダ
お役を賜り
シャバダバダ

騙し騙され
シャバダバダ
殺し殺され
シャバダバダ
老いも若きも
シャバダバダ

シャバダバダ
シャバダバダ
まだまだ続く
シャバダバダ
泥のなかから
シャバダバダ
静かに花咲く
シャバダバダ
拈華微笑の
シャバダバダ

 

☆風遊戯《シャバ》ノート

◎今回も、前回に続いて、暑いし、世の中暗いので、シャレでもいうしかないということで、速射で「シャバ」の唄を歌ってみました。

◎『困ってるひと』から3年ぶりの大野更紗の新刊『シャバはつらいよ』(ポプラ社)がでているので、その「シャバ」に触発された遊戯。

◎『シャバはつらいよ』の表紙には、寅さんのような姿のイラストの大野更紗が描かれている。これだけシリアスな状況を「絶賛生存中」の大野更紗には、どれだけの人が勇気づけられただろうかと思う。池田晶子の死後、設けられた「わたくし、つまりNobody賞」を受けたのも、なるほどと思った。

◎新刊の「はじめに」に書かれていたことに深くうなずいたのが、今回の「遊戯」を書いたそもそもの理由。それを引いてみる。

◎「わが二十九歳の身体は、「困難の類」はなんでも扱う、「困難の総合商社」になりつつあります。/この奇怪な病を発病したときから、実は、ずっと考えていることがあります。わたしがかかったこの「難病」は、何かに、似ている気がするのです。そう、何かに、似ている……。/出口のない経済不況、いつまでも改善されないどころかむしろ悪化の一途をたどる社会保障、医療や福祉の制度、金融危機、就職危機、家族の崩壊、地域の崩壊、うつの増大、自殺者の増加、孤立死の頻発……(その他いろいろ)!!/あっちゃこっちゃで火の手が上がり、何から手をつけていいかわからないので、とりあえず、「対症療法」で時間を稼ぐ。根本的な問題は、とりあえず先延ばしにする。システムそのものの、全身性の機能不全に、太刀打ちできない。/ああ日本列島は、まるで「難病列島」哉。」

◎まさに、日本は(というよりも世界全部ですが)いま「難病列島」で、どうしようもなく、とりあえず目先の「お金」とかを最優先した「対症療法」でしのごうということになっている。今の政治状況にしても、それをモグラ叩きのような「対症療法」しか考えられないのだろうというのがわかる。おそらく、ほとんどの人が、意識無意識はわからないけれど、「仕方ないじゃん!」的なんだろうと思う。今、とりあえず食っていかないといけないから、と。まさに、シャバの論理(というか感情)。

◎誰かを悪と決めつけたりしたところで、よく考えればわかるように、みんな「一蓮托生」であることはまちがいない。そのことを仏教的にいえば(逆説的ではあるけれど)「山川草木悉皆成仏」というようにも思う。善い悪いを超えた「シャバ」の「悉皆成仏」への迷路のような道。

◎だから、そういうあまりにも出口のないシャバ状況のなかでしか得られないものは何だろうというふうに考えて見ることはできる。賛成!反対!を超えた、そこでしか成り立たないような泥の中の蓮のような状況をどれだけ「宇宙観」「世界観」として持ち得るだろうかということ。

◎難病のなかで「絶賛生存中」の大野更紗ほどの苦しみとは比較できないけれど、生まれてこうして生きていること、シャバにいることそのものが、ある意味で「難病」そのもので、そのことをどれだけ自覚的に絶対矛盾的に生き死にできるかというのはなかなかの「修行」になるのはまちがいないと、「シャバダバダ」。