《公案》
2014.7.9


両手を打ち合わせる
片手の声を聞け!

さあ言え
さあ言え

わたしは公案を生きただろうか
生きているだろうか

すでに生は公案である
ひとはそれを生きねばならない
ひとはそれを死なねばならない

なぜ生があるのか
なぜ世界があるのか
それそのものが公案であるからだ

愛は公案である
こころは公案である
からだは公案である
病気は公案である
時間は公案である
わたしは公案である
あなたは公案である
時代は公案である
金は公案である
政治は公案である

さあ言え
さあ言え

わたしは公案を生きただろうか
生きているだろうか
わたしという殻さえも脱して

答えのない答えを生きよ
生は待ったなし
苦を超えて
公案を歩め
公案を遊戯せよ!

 

☆遊戯《公案》ノート

◎参禅したことも公案を与えられたこともないし、これからもそういう機会は持たないだろうけれど、禅には親近感を持っている。そして、日常そのものを禅のように生きたいと思っていたりもする。特別な場所で、ではなく、日々のなかで。

◎おそらく禅というのは、そして公案というのは、こうして生きていることそのものでもあり、そこにいかに自由を見出すかが重要である。その意味では、仏教でいう四苦八苦というのも公案そのものなのだろう。そしてそれを「解脱」するということは、それをたんに「脱する」ということではもちろんなく、それそのものを生きることを離れないことでそれを超えることなのだろう。

◎シュタイナーは、仏陀は愛を説いたが、キリストは愛を生きたという。キリストにおいては復活ということが最重要の鍵になるが、それは「生きる」(もちろんそれは「死する」ということでもある)ことそのものの極北にあるものとしてとらえる必要があるだろう。

◎それは、グノーシス的な仕方で地上を離れてしまうのではなく、いまこの「からだ」そのもの、ひいては自然を、世界そのものをともに復活・変容させるという契機でもある。その「復活」というのはもっとも理解しがたい鬼門でもありもっとも難解な公案でであるともいえるが、それに近づくためにはそれを生きるしかない。パウロも内村鑑三も、その「復活」を否定することはキリストの福音を否定することになるとした。シュタイナーの神秘学も、キリストなしでは成立しない。

◎ともあれ、日々生きるということは、実感としていっても、公案以外のなにものでもない。「答え」などは気休め以外には見つからないし、「出口」がみつかるわけでもない。腹を据えて、遊戯してみるしかなさそうだ。深刻な顔はやめて、遊び心を持って。