《橋》
2014.7.7


思いはどこからきて
どこへ去っていくのだろう
今宵一夜と
天の川を渡る牽牛ならば
船で渡るか
鵲の橋を渡るか
思いは織女へ続いていく
その後は知らない

  五色の短冊
  笹の葉飾り
  紅黄白緑黒
  揺れている

思いはどこからきて
どこへ去っていくのだろう
装束を重ねて身に纏い
橋からやってきて
橋へと去っていく
シテのように
夢から夢へ
橋懸りの向こうは知らない

  金銀砂子の
  お星を眺め
  私が書いた
  願いの行方

思いはどこからきて
どこへ去っていくのだろう
私のなかの橋懸かりから
思いは来ては去っていくのだ
空からきて空へ
星からきて星へ帰っていくように
そして夢の帰っていく先は
夢のまた夢

☆風遊戯《橋》ノート

◎「思い」や「願い」は、いちどアウトプットすると決して失われないそうです。ネガティブ、ポジティブの別は関係なく。けれど、この地上では、それがめったなことでは直接現実化しないので、ある意味私たちは救われているところがあります。もし、思ったことがすぐに実現してしまったら、大変な混乱を引き起こしてしまうからです。

◎でも、「思考は実現する」といった思考の法則を強く出したさまざまな技法などもいろいろ紹介されていたりもします。けれど、それらがときに困ってしまうのは、、多くの場合、それらの「思い」や「願い」の質やその手段が問われにくいところだと思います。つまり、ヒトラーが自己実現しようとしても、ある部分、それらが実現されてしまうような怖さがあるわけです。「お金を儲けたい!」にしても、ときに、それはいろんなことを引き起こしてしまう。その「質」の部分をちゃんとクリアできるだけの魂かどうかが問われないからです。

◎逆にいうと、どんなにささいな「思い」や「願い」にしても、決して実現しないわけではないというのもあります。そして、その場合、多くは、結局のところ、それらは自分に返ってきたり、「想念の塊」のようなものを形成し、他の人の同種の「想念の塊」と同調して肥大化したりもします。これはけっこうこわい。ある種の場所が、気持ちよかったり、逆に気持ち悪かったりするのは、そういうもので地場が形成されてしまっているからだとも癒えます。どちらにしても、自分が出した「思い」や「願い」は結局のところ、自分で引き受けるしかないので、気をつけたいものだなあというのが、今回の若干の複線です。夢のまた夢、橋でつながれた思いは、実は自分そのものの未来だった!と。

◎さて、7月7日は七夕さまで、(新暦ではイメージがわかないところもあるものの)五色の短冊と笹の葉のイメージからでてくるものを少し言葉にしてみることにしました。台風も近づいてきていて、今日は星空は見えそうもない。一年に一度しか会えない牽牛と織女は悲しいなあと思いつつ、「思い」や「願い」の行く末を少しばかり案じてみた「風遊戯」となりました。

◎七夕の伝説では、天の川を渡るのに、船で渡るというのと、鵲(カササギ)が橋を架けてくれるというのがあります。もともと中国の伝説では橋を架けるほうの話だったのが、いろいろ変わってきたりしたようです。ここではその「橋」のことからイメージを少しだけ広げてみました。

◎「橋」は、水平に渡すものだというイメージがありますが、「柱」も同じ語源だといいます。両岸のハシ(端・間)を渡すものであって、岸と岸だけではなく、さまざまなものの端に架けるもの。天橋というのも、おそらくは天と地を橋がつなぐイメージなのだろうと思いますし、神々を数える単位が「柱」だというのもあり、「橋」というのはその意味では、神々そのものであり、天と地をつなぐ存在なのでしょう。

◎能舞台には「橋懸り」という本舞台の左手から奥に,斜めに長く延びた、鏡の間に通じるところがあります。そこからシテは面をつけて登場し、思いのたけをワキに吐露し、やがて成仏(したかどうかはわかりませんが)して、またそこの橋懸りを通って帰っていきます。そのシテという霊的存在の去就のイメージを私たちの思いや願いの去就に懸けてみました。果たして、私たちの思いや願いはちゃんと成仏してめぐっているのだろうか・・・と。

◎立原道造「のちの思いに」に、「夢はいつも帰っていった」というフレーズがあって、それが思い出されたので少しだけそれもイメージしてみました。