《歴史》
2014.7.6


あなたに会いたい
もうひとりのわたし
あなたに会いたい

わたしはあなたに会いに
どこにもない
深い場所へと降りてゆく
そこでしか会えない場所へ

わたしとあなたのあいだに
歴史はひらかれる
そしてその書物の白いページが
いまという文字で記され続ける

わたしはあなたと対話する
過去のわたしというあなた
未来のわたしというあなた
数限りない対話が生まれ続ける
そこで世界の歴史が生きられる

一秒前のわたしと
愛しあったあなたと
憎しみあったあなたと
二千年前のイエスと
そしてイエスを売ったユダと
ともに歴史を生きる

わたしは降りてゆく
あなたに会いに
歴史を生きるために
今を生きるために
愛を生きるために

そのどこにもない場所で
生も死も
喜びも憎しみも
生きて動く模様となり
不思議を織りなしながら
それを纏うわたしの
永遠のからだを飾る紋章となる

☆風遊戯《歴史》ノート

◎郡司勝義という小林秀雄の晩年をともに過ごした方の『小林秀雄の思ひ出』(文春学藝ライブラリー/2014.6.20)を読んでいたら、小林秀雄が若い方に向かって「歴史」について語っていた言葉が紹介されていた。これはシュタイナーの歴史のとらえ方ととても似ていると感じた。この視点がないと、ひとはおそらくどこへも行けないのじゃないかと思う。歴史を生きていないということは、その意味で、自分をきちんと生きて振り返ってないということでもある。振り返らないからこそ、視点がすぐに外に向いて、あれはいかん、これはいい、ということだけを繰り返して、自己満足のうちにどこにもいけない。

◎「歴史家といふのはね、過去を研究するものではないつてことです。過去をうまく甦へらせる人を、本当の歴史家といふんです。・・・さういふふうに歴史を考へますと、諸君は藤原の都の時と、諸君の子供の時代を調べるのが本質的に同じになるでしょ。両方とも過去です。藤原の方が時間が遠いだけです。片方は、君の時間が少いだけです。ぢや。昨日はどうします。昨日の君は、昨日の君はもうないですよ、過去ですよ、今はもうありやしない。昨日のことを君は思ひ出すね、その時、君は歴史家ぢやないか。昨日、何をしたか、忘れたか、一所懸命、君は考へるだらう、それは歴史を研究してゐることなんだ。それは君自身なんだ。・・・自己を知るとは歴史を知ることだといふのは、さういふことなんだよ。」(P.79-82)

◎復刊書フェアという書店のフェアで、精神病理学の木村敏の『関係としての自己』を見つけ、未読だったことを知った。2005年に刊行された論文集。木村敏の著作は学生時代以降、ずっとぼくの座右の書でもある。おりにふれて幾度も読み返し対話する、ぼくにとっての古典。

◎『関係としての自己』の基本的なテーマは、ごくごく単純化していうならば、「私」には一人称としての「私」もいるが、三人称としての「私」もいて、その両者の関係性においてさまざまな精神病理も生じてくるということ。そういう意味では三人称としての「私」は、「他者」でもある。さらにいえば、それらを時間性のもとでとらえるならば、単に過去ー現在ー未来において「私」をとらえるとというときに、今ここにいる「私」というアクティブな意識の位置づけによっても、「私」というのはさまざまな様相のもとにあるわけだし、さらにいえば、今このアクティブな時間性のもとにある「私」にしても、アポロン的な私という自我性のもとにあるだけではなく、その深みにおいて、深層においてディオニュソス的な、「私たち」としての「私」の働きのもとにもあるということができる。そうした視点のもとに考察していくと、「私」と別の「私」、そして「汝」の「あいだ」こそが生きられた時間性だということもできる。(かなりアバウトな説明なので、正確に理解されたい場合は諸著書で)

◎こうした視点のもとに「歴史を生きる」私をとらえてみるならば、「私」は、もうひとりの「私」であり、同時に「汝」でもある存在者との「あいだ」でさまざまに、今、ここで対話することそのものであるということができるように思う。それが生きるということであって、そうした生きられた対話としての歴史意識が欠けていると、常に過去の亡霊のような思想や自分に憑依してきているようなさまざまな想念やイデオロギーのようなものに操られてしまって、それを自分だと思い込んだまま、さまざまな衝動のもとに言葉を使い、行動したり、ということになってしまうのではないかと思う。