《沈黙》
2014.7.5


耳をすます
ただ耳をすます

わたしのなかから
わたしに語りかけてくる
あらゆる声から
遠くはなれて
それらを生みだす
あらゆる思いから
遠くはなれて

なぜ黙してはいられないのだろう
何を守ろうとして
言葉をはなつのだろう
大きな声で
そして賛成と反対を往復しながら
ほんとうの言葉は
そんな声の中には
決して見つからないのに

沈黙のなかで
耳をすます
聴こえないものに
声が声になるまえの深みで
声になろうとしている声に
耳をすます

すると
わたしのなかで
わたしを
わたしを証しするものを
必死で守ろうとしているものが
姿をあらわしてくるのがわかる
その悲しみと叫びが

耳をすます
ただ耳をすます
すると
それらのはるかむこうで
静かに言葉をたたえ
守るべきだと思っていた
あらゆるものから遠くはなれた
わたしのもうひとつの顔があらわれる

☆風遊戯《沈黙》ノート

◎サイモン&ガーファンクルに「ザ・サウンド・オブ・サイレンス」という名曲がある。「Hello darkness, my old friend・・・(ハロー、暗闇、ぼくの古い友達)」。「沈黙」はほんとうは言葉にも音楽にもならないのだけれど、ひとはときに、それを言葉や音楽にしたくなるらしい。おそらくそれは、自分の言葉や音やへのアンチテーゼでもあるのだろうと思う。

◎高校のとき、スイスの哲学者、マックス・ピカートの『沈黙の世界』という本を見つけて、それ以降、「沈黙」についてことあるごとに考えてきたように思う。そこにこうある。「沈黙は言葉なくしても存在し得る。しかし、沈黙なくして言葉は存在し得ない。もしも言葉に沈黙の背景がなければ、言葉は深さを失ってしまうであろう」。

◎「沈黙は金、雄弁は銀」(Speech is silver, silence is golden)と、イギリスの思想家・歴史家のトーマス・カーライルの『衣装哲学』にあるが、言葉で表現することをある意味強要されているところもある西洋だからこそ、このフレーズはことわざになってもいるのだろうと思う。たしかに、言うべきことを言うことは大事なことだけれど、それがすべてだと勘違いして、ロラン・バルトも示唆しているように、言葉にすることが強要されてしまうあり方には注意が必要だということだけは、意識しておく必要があるだろう。そして、言葉の背後にある深い沈黙、言葉にならないものの深みとともにあることを。

◎ちょうど今朝の新聞に池澤夏樹のエッセイが載っていた。「大いなる沈黙へ」という修道院の映画についてのものだ。修道院での修行云々でなくても、少しまわりを見まわしただけでも、たとえばマスコミなどでの垂れ流しのような言葉に私たちがあまりに無自覚であることに気づく。

◎「今は声高に言わなければならないことが多い。/人には言いたいことがあり、それらのメッセージを伝える手段がある。広く遠く届くものと、慎ましくつぶやかれるものがある。・・・こういうことを論じているとどうしても熱くなる。まるでサッカーの観戦だ。・・・そう思ったところでふっと深呼吸をして、興奮を静め、感情高揚の呪縛から自分を放つ。/自分の人格の中で政治的意見に関わる部分はそんなに大きくはない。本当ならばたった今の政治の惨状かなどから離れて、人間というものを悠然と広く見る視点に立ちたい。下品で浅ましい争いに背を向けて一人になりたい。・・・黙しよう。メッセージの回路を断とう。」