《めぐり》
2014.7.1


めぐるすべてのために
わたしはわたしを捧げましょう
涙とともに捧げましょう
悲しいときは悲しいままに
うれしいときはそのように
涙は流れて川となり
天へと向かいそのはてに
大地をうるおす雨となる

 ありとしあらゆるもの
 いきとしいけるものは
 あたえられあたえられ
 いのちのかてをつくり
 うまれうまれうまれて
 めぶきそだちしをえて
 ささげささげささげて
 あらたないのちをうみ
 めぐりめぐりめぐりて
 ひかりとやみをあゆむ

めぐるすべてのために
光はみずからを捧げ
その苦しみを色に変え
季節はめぐり
いのちは生と死を繰り返し
天と地はめぐり
星たちは明滅しながら
不思議の幾何学を踊る

 めぐるすべてのために
 めぐみめぐみめぐみて
 いのちといのちかわし
 ささげささげささげて
 いきとしいけるものの
 めぐるいのちのひかり
 いつくしみともしあい
 たゆまぬみちをあゆみ
 めぐりめぐりめぐりて
 めぐりあいめぐみあう

めぐるすべてのために
わたしはわたしを捧げましょう
捧げるのはわたし
捧げられるのもわたし
永遠という刹那で
わたしからわたしへ
はるかなめぐみの道をあゆみ
やがてめぐりあうわたしとわたし

☆風遊戯《めぐり》ノート

◎テーマは「サクリファイス(犠牲・供儀)」としての「めぐり」ですが、「サクリファイス」のほうはあまり伝わらなくなっているかもしれません。

◎宇宙が展開している、めぐっているということは、みずからがみずからをみずからに捧げていることにほかならないのではないでしょうか。逆にいえば、そうした「サクリファイス」がなければ宇宙はその動きを止めてしまうことになります。ありとしあらゆるものは、みずからを捧げることでめぐっています。天は地に、地は天にみずからを捧げることで天と地はめぐっているのだといえます。めぐりはめぐみでもあり、分かれたものがめぐりあい、またわかれ、を繰り返しながら展開しているわけです。

◎少し前に、鈴木順子『シモーヌ・ヴェーユ「犠牲」の思想』(藤原書店/2012.9.30)を読みながら、「犠牲」ということについて考えていました。今回の「風遊戯」には、シモーヌ・ヴェーユのイメージはあまり残ってないかもしれませんが、ぼくはどこかシモーヌ・ヴェーユに惹かれるところがあったりします。

◎「犠牲」といえば、主には宗教における犠牲と社会における犠牲というふたつの観点での犠牲がありますが、シモーヌ・ヴェーユの理想とする犠牲というのは、もちろん外的に強制された犠牲でも、宗教的・政治的なところでの熱狂における犠牲といった犠牲ではありません。そうした犠牲に対しては極めて批判的です。人身御供のようなことはいうまでもないし、国や組織などからの強制や強制でなくても、自分がその一部になって我を忘れて熱狂するというようなあり方も到底肯定することはでできないというのが、シモーヌ・ヴェーユ。

◎シモーヌ・ヴェーユのいう本来の「犠牲」は、どういう意味なのかというと、イエス・キリストが十字架上でみずからを供儀としたような、「愛の狂気」とさえいえるもののこと。聖なる観点からの犠牲とでもいえます。この犠牲が、少しばかり理解しがたいところがあるのは、どうしてもだれかがなにかの犠牲になるというような、他律的な発想から離れられないからなのでしょう。聖なる犠牲は、他律的な強制でもなく、愛のない狂気でもなく、もちろん偽善的なものや幼稚な正義感からははるかに遠い。

◎自分をさまざまな観点からでの宇宙的な「めぐり」としてとたえることができるなら、あらゆる存在者はほんらい自分そのものでもあります。その視点からすれば、みずからが姿を変えた存在者へとみずからを捧げながら生きているということがみえてきます。即物的近視眼的な見方しかできないからば理解しがたいところがありますが、宇宙的な霊性の観点にまで広げてみるならば、その観点に少しは近づくことができるかもしれません。