《彷徨》
2014.6.25

 

ほんとうに欲することを私は知らない
欲することの前で踏み迷い
いのちは燃えて灰になり
心の渇きの癒えぬまま彷徨う

ほんとうに知ることを私は知らない
知ることの前で踏み迷い
世界の果てまで彷徨いながら
知らないことに気づけない

ほんとうに歌うことを私は知らない
歌うことの前で踏み迷い
闇のなかでも灯せる声を
捧げることもできず彷徨う

ほんとうに信じることを私は知らない
信じることの前で踏み迷い
証を求め疑いながら
溺れる自分さえ見えず彷徨う

ほんとうに愛することを私は知らない
愛することの前で踏み迷い
愛される願いに焼かれつつ
孤独の森にひとり彷徨う

 

☆風遊戯《彷徨》ノート

◎風遊戯版「ファウスト」に、ちょい「神曲」プラス。

◎メフィストフェレスはどこにでもいる。メフィストフェレスは、ひとそれぞれの魂の欠落を埋めてくれようとするけれど、それはほんらい、自分で埋める必要のある欠損。その穴を埋めてあげようというのが「誘惑」。

◎「誘惑」に真に対抗できるのは「自由であること」。依存によってひととき支えられたものは、支えが失われたとき、倒れてしまう。ひととひとの関係性においても、自由である関係性と依存による関係性とは対極にある。

◎欲望が果てしがないことは、欲望の対象が失われたときによくわかる。死後の欲界での私たちの状態がそれに近い状態。死後は肉体がないので、肉体やそれに結びついた欲望はそれを満たすことができなくなる。それは、欲望そのものが問題であるというよりは、自分がほんとうに欲しているものが何かがわからないからこそ、その代替物を限りなく求め続けているということでもある。

◎欲望はそうした身体的なところを超えて、たとえば「知りたい」というようなところにまで続いていく。むしろ、そうした身体的でないところのほうが強いともいえる。課題ははるか先の先にもずっとあるということ。けれど、自分が何を欲しているかを少しでも意識することで、その欲望そのもののあり方は変容してくるのではないか。

◎そのようにわたしたちの「彷徨」ははるかに続いていくのだけれど、聖母に祈ってもらって救済されるようなファウストのようなあり方を求めようとは思わない。日本神話でいえば、逆説的だけれど、追ってくるイザナミに桃を投げ、千曳の岩で通せんぼして、禊ぎで汚れを払うようなことで終わりになる。これも悲しい。

◎だからここにはもちろん「答え」はない。答えのないところに「彷徨」の意味はある。シュタイナーの示唆するような「道徳的ファンタジー」の可能性こそが重要だともいえる。