☆風遊戯《ことのは》ノート
◎言の葉は、芽吹き、光をあびてたとえようもなく美しい浅い緑になりやがて緑を深くしていきながら、やがて紅葉となり、その葉を散らしていく・・・。その不思議で美しい千変万化する姿を見えなくさせているもの、感じさせなくなってしまう嵐のような力のことを「風遊戯」の「ことのは」としてみました。
◎ロラン・バルトにこんな示唆がある。「言語はファシストなのだ・・・なぜなら、ファシズムとは、なにかを語ることを妨げるものではなく、なにかを語らざるをえなくなる強いものだからである」。
◎ことばを抑圧して沈黙させようとすることが問題とされがちだけれど、それよりも、むりやりにことばを語らせようとする、そしてそのことに無頓着であることのほうに注意を向ける必要がある。
◎賛成か反対か。肯定か否定か。白か黒か。そういう紋切り型の言葉を強要されるシーンはことのほか多い。マスコミのインタビューやアンケートなど、そうした例には事欠かない。そのことに意識的でなければ、ひとはそれとしらずに、ことばの権力を行使してしまっている。実際に、ことばを殺してしまうのは、ことばを強要することによってなのではないかと思う。
◎ことばは、言の葉のように、沈黙のなかでしずかにそよいでいるのがいい。そこでこそ、自由は育つ。
◎しずかな沈黙がゆるされないところには、自由の種は育たない。けれど、多く人は自由を求めてなんかいないように見える。だから、言の葉に嵐を持ち込む。嵐の前では沈黙は許されないからだ。「ほら、こんな現実がある!それを黙って見ているというのか!」というわけである。「勇気をだして立ち上がれ!」ということで、人は戦いを求めることになる。そのほうが自由におびえなくてすむからだ。「自由にしなさい」といわれて、しずかにそよぐことのできない自分がこわいからだ。それはある意味、言葉の早産にもなり、奇形の言葉がそこから生まれれくる。
◎スピノザにこんな問いかけがあるという。「なぜ人々は、あたかも自分たちが救われるためでもあるかのように、自ら進んで従属するために戦うのか」
◎ちょうど、國分功一郎『ドゥルーズの哲学原理』(岩波現代選書/2013.6.18)を再読したところだけれど、そこにもこんな問いかけがあった。「なぜ人は自由になることができないのか? いやなぜ人は自由になろうとしないのか? どうすれば自由を求めることができるようになるのか?」(P.222)
◎しずかにほほえむことのできる言の葉を持ちたいと切に思う。沈黙のなかでこそ、愛は育ち得るのだから。ひとはひとりで沈黙のうちに過ごさねばならない。ひとりのときに、人は愛することができる。ひとりでいることができるから、ふたりでいることができる。ひとりでいることができるから、ひととともにいることができる。われを忘れずに。そして、深い深いところで、われという垣根を越えて。
◎しかし、そういう意味では、こうして言葉をいつもなから過剰に使ってしまうというのは、自分を矛盾のなかに置くことになる。いつもそういう思いは消えないけれど、少しでもことばを(暴)力にさらさないようにしようと、ひらがなの言の葉だけを自分なりにそよがせてみたのが、今回の遊戯。あまりうまくはいかなかったけれど・・・。 |