《扉》
2014.6.23

くるくるくねくね行き止まり
袋小路に藪小路
雨に降られて陽にさらされて
歩き疲れて眠って起きて
悪態ついて自分に泣いて

迷路をぐるぐるたどっては
どこにいるのかわからぬままに
往くも帰るもままならず
やがて自分も忘れはて
どこへ往くやら帰るやら

空をながめてふと思う
上から見ればこの自分
いったいどこにいるのだろう
鳥にはなれず飛べないけれど
自分を超える道はある!

気づけば鍵が手のなかに
袋小路を出る鍵か
「扉はおまえのなかにある」
書かれた言葉を見つめては
自分の扉を考える

自分のなかの扉とは?
悩みはじめて時は過ぎ
自分のなかのそのまた自分
さがして迷いその果てに
見えてくるのは胸の奥

胸の扉のその奥に
しまっておいた闇の種
自分を閉ざし誤魔化して
見ないふりした闇の種
迷路のなかに置き去りに

扉をあけて手をのべて
光をあてて水をやり
育ちはじめた闇の種
芽を出し育ち光に満ちて
空へ空へと舞いあがる

やがて迷路が見えてくる
袋小路に藪小路
くるくるくねくね迷路の世界
たどって泣いて笑って泣いて
扉にそっとくちづける

 

☆風遊戯《扉》ノート

◎堂々めぐりのような迷路の感じをだしてみようと、七五調・七七調で書いてみることに。イメージとしては、シューベルトの歌曲「糸を紡ぐグレートヒェン」でしょうか。糸を紡ぐようにぐるぐると迷路を行く。

◎バーバラ・ボニーの歌で。
詩はゲーテで、 『ファウスト 第一部』が出典。
最初のところは、こんな歌詞です。

Meine Ruh ist hin,
Mein Herz ist schwer,
Ich finde sie nimmer
Und nimmermehr.

私の安らぎはなくなり
心は重い
もはやもう
決して憩いを見出せない

この歌曲の終わりのところに「口付けをしたい/私の望むままに・・・」というのがあって、それとは違う意味で「くちづけ」でしめくくることにしました。

http://www.youtube.com/watch?v=w90jpyjsaLs

◎ひとは自分が迷路のなかや袋小路にいることに気づかないで生きている。いうまでもなく、迷路や袋小路は自分で選びつくりだしたものだ。それはまるで偶然のようにやってくるが、なぜやってくるのかがわからないままだ。

◎いずれその迷路に向き合わなければならないときはきっとくる。扉はいつも目の前にあり、その鍵も自分の手のなかにあるのだけれど、それに気づき、実際に扉に向き合いそれを開くに至るまでにはそれなりのプロセスが必要になる。

◎こんな面倒くさいことをひとは繰り返しながら生きているんだなあと、年を経るほどに実感させられることが多い。でも、自分の閉ざした扉やその扉の奥に置き去りにしてしまったさまざまなものを解き放つことができたときの、慈しみというのはちょっと言葉にはならないかもしれない。そして、そういう迷路のような生を生きることは、ひょっとしたらその慈しみを得るためなのかもしれないと思うことがある。光と闇の物語。それは、光を見るための、闇の供犠なのかもしれない。光そのものは見ることができず、それを反射するものが必要だから。