《船出》
2014.6.21

漕ぎだすんだ
ちっぽけなカヌー
ぼくの宇宙船で

星の音楽の祝福するなか
まだ見ぬ彼方めざして
冒険はいつもはじまったばかりだ

彼方にはその彼方があるから
目的地は決めないでいよう
ぼくにはいつも
あたらしいぼくがいるから

声高らかに歌うんだ
ちっぽけなカヌーの歌を
オールの動きにあわせ
風のドラムを鳴らしながら
ぼくのリズムを
流れる水のダンスに乗せて

天の河を泳ぐという
星の魚を知ってるかい
魚のなかで静かに輝いている
光るコトバのことを

夢でみたんだ
星の海に乗りだし
航海を続ける小さな舟のまわりを
踊るように回遊する魚の
七色に光るコトバのこと
そして夢のなかのぼくも
不思議な幾何学模様をした
そのコトバとなって歌っていたことを

漕ぎだすんだ
ちっぽけなカヌーで
風と水
火と地の呪文で織りなされた
魔法のマントを友として
彼方の彼方へ
もうひとりのぼくの歌う
光るコトバを探して

 

☆風遊戯《船出》ノート

◎ケネス・ブラウアーの『宇宙船とカヌー』がヤマケイ文庫で復刊している。手元にあるのは1988年のちくま文庫版。内容はほとんど忘れてしまっているが、巨大な宇宙船の建造を夢見ていた物理学者のフリーマン・ダイソンと海を航海する巨大なカヌーの建造を夢見ていたその息子、ジョージ・ダイソンの伝記。そういえば、ぼくの名前はその息子と同じだ。今回のポエジーのモチーフの一部はそこから来ているが、とくにその内容と関連はしていない、と思う。無意識のなかでは知らないけれど。

◎夢で見たことはないだろうか。自分が今の自分にはわからない言葉で話していることを。そしてその言葉が不思議な叡智に満ちていたりすることを。夢から覚めて、その言葉とその言葉で話されていたことをとてもとても知りたいと切に思うのだけれど、どうしてもそれが思い出せないでいる。

◎思い出せないので、ああだったのではないか、こうだったのではないか、といろいろ考えはじめ、いろんな本を読んだりもするのだけれど、ときにふとどこかでそれが垣間見えるときがあったりする。何重にもヴェールのかけられた向こうにある言葉なのだけれど、それがどこかで光っているのが見えたような。

◎そうした光るコトバは、音楽のなかに見つかったように感じたり、絵画のなかに見つかったように感じたり、詩のなかに見つかったように感じたり、もちろん宗教的・神秘学的な叡智のなかに感じたりすることがある。ある意味で、それらを探してぼくは、日々旅しているようなものなのかもしれない。日常はかぎりなく俗的であまりにつらいけれど、でもその俗のなかでしか得ることのできないようなその旅の果てには、たぶんもうひとりのまだ見ぬ自分がいて、そのまだ見ぬ自分こそが自分にその光るコトバを歌ってくれるのかもしれない。そんなことを思いながら・・・。

◎ちなみに、小さな舟での船出のイメージとタイトルは、「船出していく小さな舟よ・・・」ではじまる、大貫妙子の「船出」という歌から(アルバム『One Fine Day』所収)。