《見者》
2014.6.16

見ることはむずかしい
光を見ることができないように
見ることができるのはただ
はね返されたものだけなのだから

わたしは見る
すると
わたしはそれに
はね返されて
それに入ってはゆけない

わたしは聴く
すると
わたしはそれに
はね返されて
それに入ってはゆけない

わたしはさわる
すると
わたしはそれに
はね返されて
それに入ってはゆけない

わたしは欲する
すると
わたしはそれに
はね返されて
それに入ってはゆけない

わたしはわたしのなかに閉じ込められ
みずからのループのなかにいる
はね返されたものとともに
はるかな憧れを抱きながら

わたしはあなたへと向かう
すると
わたしはあなたに
はね返されて
あなたに入ってはゆけない
あなたはわたしの外にいて
わたしをずっと待っている

見者は光のなかにいる
わたしは見者へと向かおうとし
門前にたたずんでいる

門衛は言うのだ
おまえはまだ
この門を入ることはできない
おまえが見ようとするなら
おまえの目は焼き尽くされてしまうだろう
おまえが聴こうとするなら
おまえの耳は裂けてしまうだろう

門を入るためには
長い道を歩まなければならない
おまえはおまえのなかに
入ってゆかなければならない
おまえ自身をはね返すことのない
生と死を超え
彼岸と此岸を超えた
時の奥行きにある道を

 

☆風遊戯《見者》ノート

◎わたしがなにかを欲して、それを得ようとすると、それを得ることで得られたなにかが遠ざかってしまう。空腹のときおなかを満たすと、もう食べたいとは思わなくなるように。欲望が果てしないのは、それがほんとうは何を満たそうとしているのかがわからないからだ。ただその時の欲望を満たすことだけに向かい、その満たすということはわからないでいる。そしてドラッグが身も心を滅してしまうように、それらの欲望でわたしたちはみずからを傷つけてしまいかねない。

◎わたしは「欲望の門前にいる」ともいえる。その意味で、決して見ることのできない光のなかに入っていくように、わたしはそれらの欲望そのものなかに入っていかなければならないのだろう。そのときその欲望の意味がわかるのかもしれない。

◎彼岸に向かおうとしていくら長い道を歩んだとしても、それが此岸を避けるためのものであるならば、それらの道はどこにも行き着けない道となる。光の進む彼方は、彼方にはなく、光のなかにあるように、わたしはわたしのなかへとはいっていかなければならない。それがあなた/彼方へと向かう、時の奥行きにつながっている道なのだろうと思っている。

◎その意味で、感覚は感覚が求めるものへと向かうのではなく、感覚そのもののなかへと入っていくことではじめて、得られるものがあるのだろうと思う。芸術もその意味でとらえてみることで、そこで使われている感覚や思考や感情の質の部分をとらえることができるようになるのではないかと思っている。ただ感覚を、思考や感情を、外的に行使するように見える芸術とされるものは、その意味で注意が必要なのかもしれない。それはただそこにただ自分を反射させた亡霊を見るだけなのかもしれないのだから。