《無明》
2014.6.2

闇のなかで
闇を知らず
明のなかで
明を知らず

みずからの
闇と明
その問いを持つ者は
やがて闇のなかで
みずからの闇を知り
明へと向かい
明のなかで
みずからの明を知り
闇を照らす道に向かうだろう

秘密を求める必要はない
秘密は隠されてなどいないからだ
ただそれを読むためには
みずからのつくりだす
闇と光の言葉が必要となる

闇のなかで
闇を見るためには
小さな小さな光を探すといい
光のなかで
天空の星が見えないならば
深い井戸のなかに降りていくといい

見るために必要なのは
みずからが闇と光の言葉となって
天と地を戯れ踊ること
その軌跡が言葉となり姿となって
わたしの前に照らされる

闇のなかで
闇を知り
明のなかで
明を知る
無明を照らす言葉とともに
わたしは戯れ踊る

 

☆風遊戯《無明》ノート

◎無明というのは、明るく無いと書くが、明るく無いことが問題なのではなく、自分がそれに気づいていないということが問題なのだろう。キリストが十字架の上で「父よ、彼らを赦してください。彼らは自分が何をしているのか、わかっていないからです」ということに類したこと。

◎無明の自覚を持つというのは、無知の知と似ている。みずからが知らないことに気づくことはむずかしい。そしてそれ以上に、みずからの光の欠如に気づくことはむずかしい。自分は知っている、気づいていると思いたがるからだ。

◎岡潔のエッセイ「無明」から。「今の世相は、芸術家は美を知らず、学者は真を知らずというありさまだが、そんなふうにさせてしまっているその本体こそ、無明というものではないか。そして無明の働きに対して、全く警戒を忘れているのが現状ではなかろうか。それどころではなく、無明を働かせるのが生きることだと思っている人すら多い。」

◎岡潔は、理解には「信解」「情解」「知解」があって、それぞれの理解の射程・ものさしが違い、深さも違うという意味のことを言っている。いうまでもなく、もっとも狭く浅い理解が「知解」である。「知」にはそれが必要とされるシチュエーションがあるわけだけれど、それはいってみれば、ほんの小さな部分に光を当ててフォーカスさせるような理解の仕方にすぎない。けれど、深い深い理解へと到るためには、その光の射程を無限に近いところにまでひろげていかなければならない。芸術や叡智における真善美、そして妙というのも、そういう理解のレベルを必要とする。

◎最初の岡潔の引用にある「芸術家は美を知らず、学者は真を知らずというありさま」というのも、そこには真善美妙が見あたらないからだといってもいいかもしれない。よく学者の象牙の塔的なあり方が指摘されるのも、それは単に俗世間から離れているという閉じ方だけではなく、そこにあるきわめて偏狭な知に真善美妙が欠けているということのほうが問題だといえる。

◎ゲーテは最期に「もっと光を」と言ったといわれるが、みずからの無明を明けようとするには、そのようにみずからに本来の光が必要なことに気づくことが最初の一歩となるように思う。そしてそのためには、みずからが闇のなかにいることに気づき、その闇にとらわれることなく、闇とともに生きることさえできるようになることだろう。そうすることではじめて、真の光のほうへ向かうことができる。