《自由》
2014.5.27

洪水がきて
箱船に積むものを探す
わたしのいちばん大切なもの

断崖にぶら下がっているとき
少しでも身を軽くしようと
抱えているものを捨て去るように
過去のひとつひとつを諦めながら

残せるものは何だろう
パンドラの箱の底に
最後に残っていた希望
それともまだ見ぬ自由か

岸辺のない海原を漂い
どこへ行こうというのか
放った鳥はどこへ
海と空だけを見つめる
永遠にも似た閉塞

洪水はわが魂に及び
わたしはわたしの向こう側で
はるかに臨むのだ
わたしが芽吹かせ育てなければならない
自由の枝を咥えた魂の鳥が
やがて帰還するのを

☆風遊戯《自由》ノート

◎今朝、通勤している車から白い空を見ていたら「洪水はわが魂に及び」という言葉が浮かんできた。これは、旧約聖書のヨナ書にある言葉でもあるけれど、高校のときに読んだ大江健三郎の小説のタイトルとして印象に残っている。

◎その内容と今回のポエジーが関係しているわけではないけれど、その小説でいちばんよく覚えているのは、医師に白痴と診断された主人公の大木勇魚の息子のジンが、五十もの鳥の声を聞き分けて、クロツグミですよ、オオルリですよ、センダイムシクイですよ・・・といって報告するシーンだったりします。なんだか、自分がその子どもになったような気持ちだったりしますが・・・。

◎「洪水はわが魂に及び」・・・。今、世の中に起こっている、不穏そうに見えるさまざまを「洪水」としてとらえることもできるだろうけれど、その「洪水」は「わが魂」にこそ起こっているのではないかということ。そのようにとらえなければ、ただのファナティックな社会批判にしかならない。

◎さて、今回は「自由」について思いつくままに。「自由」といえば、シュタイナーの『自由の哲学』が浮かぶけれど、そこで論じられていることが理解しがたいことがあるとすれば、それはなにかの束縛があって、そこから自由になること・・・といったイメージでとらえているからかもしれない。

◎シュタイナーが示唆しているように、人間は一般的にいって自由か不自由かということはできない。もちろん、自由でも不自由でもあるのだけれど、基本的に、いわば自由になるためには「霊的再生」を経る必要があるという。つまり、「自分の行為の法則性をみずからの法則性として貫いた者は、この法則性の強制と、不自由を克服したのである」ということでもある。

◎「生きた思考」と「死んだ思考」の違いというのもそのことに関係しているともいえるかもしれない。外的な法則性のもとにある思考は、それらに賛成しようが反対しようが、そこから自由であるとはいえない。死んだ思考である。もちろん、なんでも自分勝手な法則のもので思考するということが必要だというのではなく、みずからを霊的/精神的に高次のものへと再生させるための思考の種をつくりだし育ていなかなければ、自由を獲得することはできないということである。

◎ヌーソロジーでいう「幅」と「奥行き」の違いもその類比でとらえることができるかもしれない。「幅」には自由がないが、「奥行き」は「自由」の可能性に向かって開かれている、と。

◎ちなみに、「岸辺のない海」は、金井美恵子の小説のタイトル。小説の内容はともかくとして、そのタイトルのイメージは、シュタイナーの示唆している「水の試練」にも似ている。どこにも足のつかないところで、つまり、外的なさまざまな権威に依ってではなく、もちろん権威に対するアンチでもなく、みずからを根拠として生きるということ。