《奇跡》
2014.5.20


花びらが風に舞い
わたしの手のひらに落ちる
偶然がどうしてここに来たのか
わたしはそれを知らない

手のひらにある偶然は
わたしがこうして生きている偶然であり
あなたと出会う偶然でもある
そしてだれもが死を迎えるという必然と
それは何も変わらない

それを何と呼べばいいかわからないけれど
偶然と必然を然るべく流れている河のことを
奇跡とでも呼んでみようか

奇跡を特別なことだと思うのかい
然るべく奇跡は実るのだろう
種を植え芽吹かせ育て花を咲かせ
そうして実りを迎えるように

奇跡の奇は大きな可能性
跡は足で繰り返し歩むこと
偶然と必然の河を静かに泳いでいくように
わたしたちは奇跡を生きている

奇跡のうちに
わたしは生まれ
奇跡のうちに
あなたと出会い
奇跡のうちに
やがて死を迎える

ひとひらの花びらと出会うように
奇跡はわたしとともにあり
苦しみさえも友として
静かに静かに熟していく

 

☆風遊戯《奇跡》ノート

◎いがらし・みきおの漫画『ぼのぼの』のなかの名言にこういうのがある。「じゃあどうしてその石に偶然が来たの? 」。(ぼのぼのたちがトドに襲われたとき、スナドリネコさんが石を投げてトドから助けてくれるのだが、スナドリネコさんが「この石はお前を助けたんだから、その石はお前のことが好きなんじゃないか?」と言われたのに対し、アライグマくんが「そんなの偶然に決まってるだろ、偶然そこにあって、偶然スナドリネコさんが投げたんだ」と言ったのときに、ぼのぼのが言った言葉)

◎神秘学的にいえば、それを偶然だというのは認識力の欠如だという。どんなに理由がはっきりしていたとしても、自分がそれに気づかない限り、それは偶然と位置づけられる。

◎けれど、それを必然に置き換えてしまうことはできないだろう。そこに自由がなくなってしまうから。だから、偶然と必然のように見えるなにかの根底にある「然」のなかになにがしかを見つける必要があるのかもしれない。自然とは自ずから然らしむるものであるととらえるように。その自ずからの「自ず」のところに、ひょっとしたら奇跡のすべてがあるのかもしれない。

◎奇跡という漢字を見ていたら、「奇」という漢字は「大+可」、「跡」という漢字は「足+亦」。大きな可能性を自分の足で繰り返し(亦)歩むとでもいおうか。そんなことを勝手に思った。

◎奇跡をミラクル!のようにイメージするとおかしなことになる。起こったり、起こしたり・・・というように。特別なこと、「起こり得るが極めて可能性が低い」という印象があまりに強くなってしまうからだ。「奇跡」で救われたりすることもあるのかもしれないが、それはほんとうは大切なことじゃない。大切なことは、あらゆることを、存在そのもの、いまここに自分がいること、あなたがいることそのものこそが神秘的なことであり、奇跡そのものだと思えることが大切なことだと思う。

◎「奇跡のリンゴ」という2013年制作の映画がある。無農薬リンゴの栽培に成功し、「奇跡のリンゴ」とし話題を集めた青森のリンゴ農家・木村秋則の実話を映画化したもの。

◎そこで使われている「奇跡」は、偶然と必然をながれる「然」を育てたことで可能になった「実り」なのではないか。奇跡は実る!だから、実らせるべく歩まなければ、実りはない。もちろん歩んだからといって、必ず実りが得られるというのでもない。しかも、日本の神話にもあるように、穀物や食物の神のオオゲツヒメは、スサノオに斬り殺されたことで、その頭から、蚕が生まれ、目から稲が生まれ、耳から粟が生まれ、鼻から小豆が生まれ、陰部から麦が生まれ、尻から大豆が生まれた、とある。(「古事記」ではツクヨミがウケモチを殺す話になっているが)

◎実るというのは、その意味で、高次の存在の供犠を必要とする。そのように、私たちのさまざまな意味での「実り」というのも、私たち自身の供犠を必要とする。仏教では「四苦八苦」とされるものも、ある意味、そうした供犠なのかもしれない。けれどそうした「供犠」は、存在の「然」を、つまり「奇跡」そのものを生きることで、「実り」に変容し、甦る。それをシュタイナー的に三位一体の秘儀として表現することもできるかもしれない。「神から生まれる」「キリストにおいて死ぬ」「聖霊によって甦る」。