《鏡》
2014.5.18


光あれ!
けれど
光を見ることはできない
光を見るためには
光を映す幕が必要なのだ

私よあれ!
けれど
私を見ることはできない
私を見るためには
私を映す幕が必要なのだ

私は私であることを知るために
自分に自分を映す鏡をつくる
私のからだは私の鏡
私の心は私の鏡
私は反転した私のなかで私を見る

だから私があなたに会うと
反転した私のからだと心が
ほんとうのことを言おうとして
反対のことを言ってしまったりもする
ほんとうは違うんだと叫びながら

愛は憎しみに
喜びは悲しみに
慈しみは傷つけあいに

私は私というこの世界の鏡のなかで
美しさと醜さ
善いと悪い
長いと短い
高いと低い
ほんとうは分けたくないふたつのあいだを
絶えまなく反転し続けながら生きている
まるで悪夢のように
私が私であろうとするための鏡の世界で

私よあれ!
鏡の間で
自分を限りなく映しあいながら
けれど私はここにいる!
映せない私がここにいる!

時空の鏡という
永遠を映す幕で
私は私の限りない夢を演じている
あなたという私の鏡と戯れながら

 

☆風遊戯《鏡》ノート

◎永遠を見つけるのは簡単だ。けれどそのとき自分は自分を「分かる」ということはできない。自分を「分かる」ためには、自分を分けてなにかに映さなければならない。苦しみも喜びもそこからはじまる。

◎光そのものを見ることはできない。私たちに見えているのは、光を反射するものでしかない。だから光を見た!ということはできない。しかし、見ることというのは、光のなにがしかを垣間見せてくれたりもする。

◎「美しさと醜さ」「善いと悪い」「長いと短い」「高いと低い」というのは、いうまでもなく「老子」から。美しいとみんなが思うから醜さがそこからでてくる・・・。けれど、美しいものを見ることができるというのは素晴らしくもある。問題はその二項対立的な発想をいつまでも持ち続けることだと思う。二項対立を踏まえながら、それがどこからでてきているのかに気づき、その境の意味を認識しながらそれを超えようとすることが大事なんじゃないかと思う。

◎私たちは、胡蝶の夢のような世界を生きているともいえるのだけれど、時間と空間による世界が永遠から生まれてきたのも、その限りない遊戯のためじゃないかという気がする。世界は苦であり悲しみでもあるのだけれど、そしてそれは悪夢であることも多いのだけれど、喜びや愛を生きることもできるのだから。

◎さて、シュタイナーの「死者の書」から、肉体が鏡であることについてのところを引用しておきます。地上で肉体を自分だと思えなとしたら、私たちは霊的に不完全なままの存在で霊界を生きることしかできなくなると言います。私たちは、はるかな理想のために、つまりより成長できる可能性を得るために、この地上で肉体を自分だと思いながら生きる必要があるわけです。もちろん、肉体は鏡であるという認識を持ちながら。以下、引用です。

◎「完全な自我意識に到ることができるのは、私が語った「遺体ファントム」を肉体の中に形成することによってのみなのです。私たちは肉体という透明な本性に鏡の裏を張らなければなりませんでした。肉体が完全な鏡となったときはじめて、「私は私だ」と言える自分を感じることができたのです。
 しかし完全に鏡の裏を張る行為は、ゆっくりと時間をかけてなされました。それは人類史の進化の過程を通して行われ、ゴルゴタの秘蹟が生じた時代に完成されました。その時代に鏡の裏が完全に張られたのです。それ以前には、まだいつも「上」と「下」とが人間本性の中で出会っていました。しかし肉体の鏡が出来上がり、人間が肉体からの反映だけを知覚するようになったことによって、「上」と「下」が完全に遮断されました。」「In Christo morimur(キリストにおいて死ぬ)」