《壁》
2014.5.16


見えない壁の向こうで
見えないきみが
見つめているのは
見えないぼく

見えない壁に向かって
ぼくはパントマイムのように
おどけて踊ってみせる
そしてときおり
見えないきみにむかって
ひとさし指を向けたりもする
そして見えないきみも
ぼくにひとさし指を向ける

見えないぼくと
見えないきみが
見えないところで見つめ合う

見えない壁がある
超えることはできるのだろうか
記憶の壁
死の壁
宇宙の壁
そしてぼくときみの壁

ふと孫悟空の話を思い出す
この世の果てまで辿り着いたと思い
そこで見つけた大きな石に印をつける話
けれどそれは釈迦の手にすぎなかったという
釈迦の手は壁だったのだろうか
それとも悟空自身の壁だったのだろうか

壁はどこにあるのだろう
見えない壁がぼくの世界の壁をつくる
壁であるとさえ気づかないまま
気づいていても
超えられないという諦めで

壁がぼくを囲んでいるのか
それともぼくが壁をつくりだしているのか
ぼくは見えない壁に耳をあてて
見えないきみの声に耳をすませる
青空の向こうの
見えない星たちの物語を観ようとするように

 

☆風遊戯《壁》ノート

◎今回の「壁」というテーマは、シュタイナーの『自由の哲学』のなかで示唆される「認識の限界」についてのものでもある。認識にはほんとうに限界があるのかどうかというテーマ。そこで示唆されるのは「物自体」という限界を超えるためのアプローチでもある。もちろん、なんでも認識できる方法があるとかいう話ではなく、認識の限界だとされている境界を越えていく方向性が可能なのかどうかということ。

◎おそらくいちばん悲しいのは、自分が認識できているかどうかにさえ気づかないまま、「壁」の内側で自足してしまっていることなのだろうと思う。少なくとも、今自分はなんらかの「壁」のなかにいるということに気づくことからはじめる必要があるのだろう。

◎「壁」のイメージのひとつに、村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』がある。一角獣が生息し「壁」に囲まれた街(「世界の終り」)に入る話。その「壁」の中の世界はやがて、『ねじまき鳥クロニクル』のなかの「井戸」のなかに降りていく話に展開しているようにぼくは思っている。そして「井戸」の底はどこかに通底する。

◎シュタイナーは、たとえば『シュタイナーの死者の書』(ちくま学芸文庫)のなかで、ベルクソンを引き合いにだしながら、私たちの記憶像が霊的体験のはじまりだと示唆している。そしてその記憶の向こう側へと向かう道について語る。

◎またその連続講義のなかで。ジョルダーノ・ブルーノの言葉を引いている。「諸君が広大な天空を見上げるとき、太陽も諸惑星も地球の周りを回っているように見える。そして、青空は青い壁のように見える。この青い壁は、諸君の認識能力、知覚能力がそこまで達していないために、そのように見えるのだ。しかし、諸君の限られた感覚が壁しか見ようとしないところには、無限の空間が拡がっている。そこには無限の宇宙が存在しているのだ。」