《コスモロジー》
2014.5.5


ひとりのときは
ひとりとともにありなさい
ふたりのときは
ふたりとともにありなさい

あの空の彼方に
宇宙はあると思うのかい
永遠へとつながる
魔法の道があると思うのかい

悲しみのときは
悲しみとともに
喜びのときは
喜びとともに
好きも嫌いも
あなたとともに

パンドラの筺のなかにあったものは
いったいどこに追いやられてしまったのだろう
それらが自分の宇宙ではないかのように
希望だけが残されていると思うのかい
それを抱きしめながら
彼方に何かを探さなければならないかのように

私は死なない
私が死とともにあるときに
私は苦しみを超える
私が苦しみとともにあるときに
私は悪を恐れない
私が悪とともにさえあるときに
私は宇宙になる
私が宇宙とともにあるときに

 

☆風遊戯《コスモロジー》ノート

◎コスモロジー(宇宙論」のポエジーを書いてみました。大きな望遠鏡を出して宇宙の彼方になにかを探すようなことでも、相対性理論や素粒子論のような理論的な宇宙論を論じるのでもなく、自分が今ここにいることそのものを宇宙を生きるということにするというポエジー。

◎「臨床」(医療・教育・ カウンセリングなどでの現場を重視する立場)ということが、ようやく少しずつ重視されてきているところがあるけれど、逆にいえば、ほとんどの場合、現代の世界観では、自然科学的な客観主義が克服されているようには見えない。むしろ、その逆で、さまざまなものがいわゆる「グローバリゼーション」のように、標準化されてしまおうとしているように見える。その標準化は、さまざまなものを自分から追い出してしまう。死などのような「見たくない」ものを見せないようにしながら。そうした追い出されたものこそが、重要であるにもかかわらず。

◎ひとの苦しみも恐れも、自分という永遠の宇宙のなかから自分の嫌いなものを放り出してしまうことで、それらが外から自分を襲ってしまうことから起こるのではないか。

◎自分だけが正しくて相手は間違っていると言いたい人は世に満ちている。まるでそれを生き甲斐のようにして。正義は我が手にあって、悪は相手とともにあるといいたいのだろう。しかし、どんなときにも、正義も悪も自分のなかにあるのだということを忘れてしまったときに、人はともすればさまざまな愚行へと向かってしまうことが多い。そして容易にその正義は裏返った悪となって自らをも襲うことになる。

◎先日、宮崎駿のこんな言葉をツイッターで知った。
 「悪いやつをやっつければこの世はよくなるという考え方、
  あれはもうやめようと思っている。
  そうじゃなくて、
  こうなったのはみんなのせい。
  みんなで一緒にやっちゃったんだというふうに思わないと、
  なにも道は生み出せないと思う。」
 (宮崎駿 pic.twitter.com/j1WemoyY2q)

◎ひとりでいられないから、ふたりでいようとするときには、そのふたりはふたりになることができない。あいてもじぶんもひとりのままで、その孤独はただの孤独のまま。ふたりでいるときには、ふたりでいることができなければならない。ふたりでいるためには、愛が必要になる。ひとりでいることができるということではじめて成り立つ愛。