《うたかた》
2014.5.1


変わらないものはあるのだろうか
その問いは河の流れのうたかたのように
浮かんでは消えながら
天使の悲歌のように
繰り返し繰り返し奏でられる

生きとし生けるもの
ありとしあらゆるもの
その源にあるものは
悲しみなのか
歓びなのか
それとも驚きなのか

答えの用意された問いは
すでに問いでさえないから
私は答えのない問いへと旅をする

問いと答えが刹那に点滅する幻を前に
変わらないものを求めて旅する者が
やがて無常こそが永遠であることを知るように
答えのない問いに向かう私は
みずからが私でない私であることを知る

悲しみは悲しみのままで
歓びは歓びのままで
驚きは驚きのままで
答えそのものでもある問いとなって
たゆたい流れかつ消えかつ結び
私をさまざまに現象させてゆく

ああ変わらないものはあるのだろうか
問いが数々の流れとなり集まって大河となり
やがて海へと流れ込む
その海を永遠と呼ぶとしても
やがては姿を変えて天へと上昇し
またあらたな問いとなって降り注ぐ

うたかたのめぐりの歌を歌おうか
悲しみのしらべ
歓びのしらべ
驚きのしらべを
私という楽器にのせ
永遠を問いそのものにして

 

☆風遊戯《うたかた》ノート

◎あえて説明する必要もないでしょうけど、鴨長明の「方丈記」のモチーフを使って、「うたかた」ということについて書いてみました。ちょっと説明的でくどくなった感もありますが、まあ、ノリで。

◎「うたかた」というのは、水に浮かぶ泡沫であり、はかなく消えやすいもののたとえですが、語源は「うくたまかた(浮玉形)」の転じたもので、「浮きて得がたきもの」の略。「うたかた」の「かた」は「形・型」のようですが、「うた」についてはよくわかっていないようです。そこで、ここではちょっと勝手にその「うた」を「歌」としてとらえてみました。単にはかないというイメージのうたかたというよりも、「うたかたの恋」にもつながるような、はかなくもあり、せつなくもあり、またそれが生きる熱にもつながってくるような、そんな「うたかた」として。

◎その「うたかた」そのものに、ここでは「問い」を投げてみました。「変わらないものはあるのだろうか」と。永遠とは何かと。そこで、悲しみと喜びと驚きという哲学の源にあるとされるものを重ねて。

◎西田幾多郎は「悲」を哲学の根底に置きましたが、西洋哲学の源流近くにいたアリストテレスは哲学の根底に「驚き」を置いています。「歓び」の哲学というのはあまり聞きませんが、あえていえばエピクロスの快楽主義でしょうか。快楽主義という表現は誤解されるところも多いですが、実際のところは、このエピクロス学派は「俗世を避けた隠者」のような存在だったようです。いわば、足るを知る生活において認識そのものの快楽を事としたということかもしれません。エピクロスに対照される存在としては、その同世代のストア派のゼノンでしょうか。

◎ここでは万物を流転しているととらえたヘラクレイトスもイメージしながら書きましたが、ヘラクレイトスは変化と闘争を万物の根源とし、万物の根源(アルケー)を「火」ととらえていたようですから、イメージとしてはむしろ「万物のアルケーは水である」としたタレスのイメージでもあります。

◎「めぐりの歌」は、もちろん宮澤賢治の「星めぐりの歌」から。「あかいめだまの さそり/ひろげた鷲の つばさ/あをいめだめの 小いぬ ・・・」。