《記憶の彼方》
2014.4.27


忘れてゆく
そして忘れてしまったことさえ
忘れてしまったとき
私にはなにが残されているのだろう

私という現象は偏屈な記憶の集合体で
そのジグソーパズルのピースを
ひとつひとつなくしていくならば
やがて私は私でさえなくなっていくのか

それまで使っていた文字が
一文字ずつ使えなくなっていくように
言葉で組み立てられていた世界が次第に蝕まれ
やがて私という現象が灯らなくなるのだろうか

私であったもの
私であると思っていたもの
それがひとつひとつ失われ
中心に残される最後のピースさえも
なくなってしまうと想像せよ!

そこからしか
はじまらないものがある
なくなるはずのないものが
なくなってしまったときにこそ
うしなわれないなにか

私という現象の奥で
ピースを並べまた解体しているもの
光から閉ざされたとしても
光の不在をさえあらしめているもの
すべての拠り所をなくしてしまったときにこそ
その見えないものの源が顕れる
記憶と忘却の果てのカーテンコールで

 

☆風遊戯《記憶の彼方》ノート

◎私たちが自分だと思っているもののほとんどは、「記憶」の断片の集積で、それらの「記憶」に対してさまざまに執着しながら、それらのつくりだしている世界のなかで「自分は自分だ」と思い込んでいるところがあります。そうしたなかで、それらの「記憶」そのものが失われてしまうとしたら、いったいどうなんだろうか。

◎ヌーソロジー的な表現を使っていえば、「記憶」の「幅」が失われたときに、その「奥行き」にはいったい何があるんだろうということでもあります。

◎自分を目に見える「からだ」や、見えなくても自分だと思い込んでいる「こころ」だと思い込んでいるとしたら、それらが依って立つものが破壊されたり失われたりすれば、自分そのものが存在しなくなるしかないわけですが、問題はおそらくその「先」にある。

◎今回の書くきっかけになったのは、漆原 友紀『蟲師 特別篇 日蝕む翳』でした。今、『蟲師』の愛蔵版が刊行されていますが、今回はほんとうに久々の新作。

◎そのなかにこんなところがありました。「日々の中心にあったもの/無くなるなど考えもしなかったものを失ったとき/人が拠り所とするものは/代わりに中心とするべきものは/一体何だろう。」

◎シュタイナーの『いかにして超感覚的世界の認識を得るか』にも、水の試練というのが紹介されていて、それは「底に脚がとどかぬ水中では、どこにも足場がないように、この試練の場においても行為する人間を支えてくれるものがどこにもない」とあり、さらなる試練として、「この試練にはどんな目標も感じられない・・・すべては彼自身の手に委ねられている。何ものも彼を行為に駆り立てようとはしない。・・・どこへ向かっていいのか、自分自身の他には、自分の行くべき方向を示し、自分の必要とする力を与えてくれるような何ものも、何びとも存在しない」という試練があるといいます。

◎こうした「試練」はある意味で、至極当然の部分でもあるのですが、今回の「風遊戯」では、この「試練」をさらにすすめたところで、「自分自身」という根拠のところが失われてしまったら、というのがテーマとなっています。

◎書きながら、筒井康隆の『残像に口紅を』という名作。たとえば、「あ」という文字が使えなくなると、「愛」も「あなた」も消えてしまうように、言葉がひとつひとつ消えつづけるというなかで執筆する小説家の話を思い出したので、少し入れてみました。

◎「私という現象」はもちろん、宮沢賢治から。