《煩悩》
2014.4.26


ひとりでいるにせよ
ふたりでいるにせよ
煩悩の花は乱れ咲く

煩悩はまるで
それと知らぬうちに血肉になった母語のように
避けようもなく
それとさえ知られぬままに
私たちの深みから立ち上がってくる

煩悩は私であるのか
その自問こそが
謎への道しるべとなる

どう転ぶか
そしてどう立ち上がるか
生きているということは
煩悩との遊戯から学ぶということだ

見えない戦場があり
私たちは結合双生児のような両義性の煩悩を
わが盟友として地を彷徨う

剣を振る私たちは
それがいったい何を斬つのかを自問し
戦うべきか戦いをさけるべきか
そのべきの往還を繰り返す

戦うことで得られる勝利も敗北も
戦わない迂遠のなかでの逡巡も
それらを真に生かすためには
あらゆる魔物と対峙しなければならない

自由と不自由に焼かれ
放縦と戒とに裂かれながら
肉を切らせて骨を斬とうとさえするが
その炎は魔物をますます巨大なものに変える
聖なるものにさえ姿を変幻する魔物に

やがて私たちは気づくのだ
その魔物は私たちそのものであることに
私たちの投げる光と影が
物語をスクリーンに映じていることに

ときに軽快に
ときに荘重に
静かな笑みで
あるいは狂騒のような高笑いで
私たちの前に現れる魔物とともに踊りながら
踊ることで私たちは導かれてゆく
戦いながら戦わない場所へ
光と影を映ずる源へと

 

☆風遊戯《煩悩》ノート

◎仏教関係のものを読むと必ずこの「煩悩」というテーマが繰り返しでている。

◎煩悩の数は限りない。そして、諸悪の根源のように描かれる。貪欲、瞋恚、愚痴、五蓋、惛眠、掉挙、疑などなど。菩薩の四弘誓願にも「煩悩無量誓願断」とかが立てられているように、煩悩を滅することが仏教の主眼であるようなところもあったのだけれど、反面、如来蔵の思想のように、煩悩があるからこそ悟りを求めようとする心、菩提心がでてくるのだとして、煩悩と菩提は相即し、而二不二であるという不二法門が説かれもした。ぼくの好きな維摩経ですね。

◎今回の遊戯を書いてみようと思ったのは、それとは少し離れて、昨日、森博嗣の剣豪小説「ヴォイド・シェイパ」シリーズの新刊、第4巻目の「フォグ・ハイダ」を読んだのがきっかけのようである。森博嗣の小説は、推理ものはあまり読まないけれど、アニメにもなった「スカイ・クロラ」シリーズやこの「ヴォイド・シェイパ」シリーズはちょっと特別な感じがあってずっと読んでいる。

◎とくにこの「ヴォイド・シェイパ」シリーズは、剣に関する物語ということもあって、自分では剣の修行などまるでしていないにもかかわらず、戦うことなどについて深く考えさせられることもあって、とても魅力を感じている。

◎帯にもなっているところを今回の「フォグ・ハイダ」から引用しておきたい。「どんな場合でも、戦うことは容易い。戦わないことに比べると、それはいつも近道に見える。」「剣とは、人を斬らなければ答えが出ないものなのか。であれば、侍の真実とは、人を殺して、わかるものか」。