《訪れ》
2014.4.20


それは訪れてくる
まるで知らない者のように
そしてもうひとりのわたしのように

わたしの得たものは
かつてわたしのなくしてきたもの
得るためになくすという
数しれぬ悲しみとともに
わたしは新たなわたしへと導かれた

空のむこうに
星の世界に
わたしはあったのかもしれない
けれどそこはここにあって
そうしてそこに
あなたは訪れた

わたしはひとり
それともふたり
あなたはひとり
それともふたり

わたしはわたしから失踪し
あなたはあなたから失踪し
わたしはわたしでないわたしに出会い
あなたはあなたでないあなたに出会う

それは訪れてくる
ときには闇の使者のように
ときには恋人のささやきのように
ときには鳥の歌のように

わたしは指さす
彼方にある世界を
するとその指先は
あなたという不思議な愛に変わって
わたしのはるか後ろから
静かで熱い言葉となって訪れてくる

 

☆風遊戯《訪れ》ノート

◎たとえばわたしたちは、考える力を得るために、さまざまな生命力をなくしてきた。論理的な考える知的な力を得ることが必要だったからだ。

◎トカゲはしっぽを切られてもそれを再生させる力をもっているが、わたしたちはそういう力をすでに失っている。歯さえ、爪のようには何度も生えてくることはない。

◎私たちは、そうした原初的な生命力を次々と別のものに変えることで、人間としての能力を獲得してきた。言葉を使って話せるというのも、そのひとつだろう。言葉を得るために私たちはいったい何をなくしてきたのだろう。

◎私たちはさまざまなものをなくすことで、そのなくしたものを別の形で獲得し続けてきた。けれど、姿を変えたからといってなくしたものはそこにはすでにない。

◎「頭で考えるのでなく」という、感じたい人のよく使う言葉があるが、ほんとうに感じとるためには、いちどきちんと考える力、論理性を自分のものにしておく必要がある。そしてそれを越えていくために、今度はそれを手放すのだ。得ていないものを手放すことはできない。手放すことができるためには得ていなければならないのだ。その悲しいプロセスを私たちはひたむきに歩んでいく必要がある。

◎愛というひとをむすびつける力も、いちどわたしとあなたが切り離されることを通じ、「結ぶ」という力を獲得することで得られるものだ。だから、わたしがわたしであるという深い悲しみや絶望ややりきれない苦悩をもたないで、愛へと至る道はないだろう。

◎ときに、わたしたちはなにかの「訪れ」を感じることがある。それは決して善きものだけだとはかぎらないが、まるでまさに「音連れ」のようにそれは訪れて、わたしたちのなくしてきたものや離れてしまった人が別の姿になってわたしたちに新たな力を与えてくれる。それを拒むこともできるだろうが、必要なときに必要なものは必要なかたちで訪れてくる。禅でいうならば、「啐啄同時」とでもいおうか。

◎言葉を使いすぎているが、要は、わたしはわたしでなくなることでわたしへと向かっているということ。