《愚》
2014.2.2


どうしようもない私が現れる
私でない私が
私の顔をして歩いている

私という壁に囲まれて
私という仮面の内で
自分はいったい何をしているのだ
したり顔をしている自分を
吐き出そうとする私がいる

私が私である賢さが
耐えようもなくなるとき
どうしようもない私になって
よろよろとぼとぼ歩くのだ

愚かになることでしか
愚かでしかありえない自分に気づくことでしか
たどり着けない場所がある

私の前に道はなく
私の後ろにつくられる道を呪いながら
それでも私という軛を逃れようと
私でない私のほうへと
おろおろびくびく
どうしようもない私を歩くのだ

 

☆風遊戯 《愚》ノート

◎昨日の「開」を受けて書いてみました。
◎「どうしようもない私が歩いている」というのは、種田山頭火の自由律俳句のひとつ。「僕の前に道はない僕の後ろに道は出来る」というのは、高村光太郎。

◎みずからを善しとするような賢さのなかで生きることを嫌悪したくなることが多い。だれかになにかを教えることができると過信し、みずからを知らないがゆえに、何も知らないこと以外を知らないことにさえ気づけない。そういう賢さを去って、愚かさのなかに身を置きたくなることがある。
そうしなければ、あらかじめ決められた問題と答えを往復し、正解とされるものだけを選んで歩くことで、どこにも行けなくなってしまう。
みずからの愚かさや悪の迷路のなかでときに踏み迷ってみることでしか、見えてことないものを見ようとし、そうすることでしか開けない自分をただ歩いてみること。

◎昨日の「開」との関係でいえば、胸の奥の十字から咲こうとする花は、蓮が泥のなかからこそ変容し咲き出でるように、その泥のなかにいる自分を見ることからはじめる必要があるとでもえるだろうか。