「西洋哲学史」レゾナンスII


1 無限
2 自己原因
3 経験論
4 有限な無限
5 知覚
6 同一性
7 言語
8 理性
9 自我
10 他者
11 貨幣
12 個数
13 レアリテ
14 超越論的
15 有限から無限へ

 

 

「西洋哲学史」レゾナンスII-1

無限


(2006.11.22)

   私のうちにある或る観念について、それが「私自身はその原
  因ではありえない」ものであるならば、「そのような観念の原
  因であるもの」は、必然的に存在する。デカルトによれば、神
  の観念がまさにそのようなものである。神は「ある無限で、全
  知、全能な」実体、いっさいを創造した実体である。無限なも
  のの観念は、有限な存在である私自身をあふれ出しており、私
  はその観念をつくり出すことができない。「先に述べたところ
  によって、だから神は必然的に存在する」。(…)
   私の存在は私自身がつくり出したものではない。私は、自分
  の作者ではない。私がきのう存在したことから今日の私の存在
  は導出されない。私があすも存在することを、私が決定するこ
  とはできない。そのかぎり、私を無限に超越した神が存在する。
  いわゆる「連続創造説」である。神以外のすべてのものは「そ
  の存在を神の力に依存せざるをえず、神を欠いて、ほんの一瞬
  も存在できない」。神、とくにデカルトの神はまことに強大で
  ある。
  (熊野純彦『西洋哲学史/近代から現代へ』岩波新書
   第1章・自己の根底へ より)

私の過去をずっとさかのぼっていくと
どこまでたどれるのだろう
未来をずっとたどっていくと
いったいどこまで続いていくのだろう

無限の前では
私のからだはこんなにちっぽけで
私の意識の範囲もごくごく限られていて
眠ってしまうと自分がどこにいるのかわからないほどだ

けれどどうして 私は無限のことを考えることができる
少なくとも考えようとすることはできるのだろう

私の作者様
私はいったいだれでしょう
私はいつから私なのですか
私はいつまで私なのですか
私という有限の彼方に広がる無限の世界で
あなたは私をつくったのですか

無限を限りのない大きさと
限りのない小ささの彼方に夢想する私の
このちっぽけな空想のなかのあなたは
なぜか私のとても近しいところで
なにげなく吹いている風や
気持ちよく笑っているおじいさんでもあったりする
有限と無限が矛盾もなく隣りあっている友人のように

 

 

「西洋哲学史」レゾナンスII-2

自己原因


(2006.11.25)

   無限な実体が、自己原因であることで同時に他のいっさいの
  原因であるとは、唯一の実体が、自己原因という存在のしかた
  を他のすべてのものにおいて反復することである。「無限に多
  くの属性」において反復することにほかならない。無限な実体
  が属性の差異のなかで自己を反復することで、じぶんの唯一性
  と同一性を不断に産出している。スピノザとスコトゥスの思考
  を重ね合わせながら、ドゥルーズがそう論じるように、無限な
  実体の存在は無限な差異について語られる。
  (熊野純彦『西洋哲学史/近代から現代へ』岩波新書
   第2章・近代形而上学 より)

私は鏡の部屋
私はそこで見るのだ
私の姿を
見ているのは私
見られているのもすべて私

鏡の部屋は0から9までの数字で表わされる
表記のために小数点や√記号なども多用され
そこには無限に極小の数から
無限に極大の数
さらには虚の数までがひしめきあい
数が数が交響しあう壮大な音楽が鳴り響いている

私はαでありΩであり
ありとあるもの
私は私以外のなにものも必要とせず
同時にすべてのものをうみだしつづける
私は私を反復し
私を奏で続ける

しかし唯一できないことがある
私でないものをうみだし
私でない姿を見
私でない音楽を聴くこと

絶対的な孤独がときに私を襲う
その孤独ということさえ
私がつくりだしたものではあるのだが

 

「西洋哲学史」レゾナンスII-3

経験論


(2006.11.28)

   むしろこう想定すべきではないだろうか。人間のこころはい
  ってみれば白紙の状態で生まれてくる。いっさいは経験によっ
  って獲得されるのである。ロックはとりあえず、そう主張する。
  (・・・)
   ロックの哲学は、平易なそのおもだちにも似ず、かなり複
  合的で、起伏に富んだ思考である。
  (熊野純彦『西洋哲学史/近代から現代へ』岩波新書
   第3章・経験論の形成 より)

おなじものを見ても
おなじものを見ているのだろうか
おなじものを聞いていても
おなじものを聞いているのだろうか
あなたとわたしは
そして昨日のわたしと今日のわたしは

おなじだから
おなじなのに
おなじということの
喜び、悲しみ、そして苦さ

やってみなくちゃわからないよ
おっしゃるとおり
やってみたけどよけいわからないよ
わからなくなるって素敵じゃないか
わかったことはそれでおしまいになるかもしれないけれど
わからないことはどんどんわからなくなって
その先の先までずっと進んでいくことができるから
まるで愛のように

おなじなのに
おなじにならないものが
先の先まで続いていって
わたしがいて
あなたがいて
白紙だったはずの紙に
書き込まれるかたちや色のくさぐさ
そして紙はさまざまなかたちに折られ
紙と紙とが無限に向かってダンスする
その喜び、悲しみ、そして苦さ

 

 

「西洋哲学史」レゾナンスII-4

有限な無限


(2006.12.4)

   ライプニッツはグザーヌスの著作につうじ、形而上学から数
  学的な著作にいたるまで、その影響を受けていた。クザーヌス
  によれば、「被造物」としてのすべての個体は「有限な無限」
  であり、「すべてのものを自己のうちに内含complicare」し、
  かつ「いっさいを展開explicare」させる」。ーーcomplicare
  とは、いくえにも折りたたむことである。個物は、全宇宙をみ
  ずからのうちに織りいれていることで無数の襞(plis)をもつ。
  個体とは、宇宙が紡ぎ混まれた折り目(replis)である。無限の
  襞をもち、それぞれが世界の折り目であることで、世界内部の
  存在者はすべて個体であり、他のいっさいの存在者から区別さ
  れる。
  (熊野純彦『西洋哲学史/近代から現代へ』岩波新書
   第4章・モナド論の夢 より)

死んではいけない
死んではいけない
死んでもあなたはいなくなったりしないけれど
あなたのなかの大切なものがこわれてしまうから
大切な襞をだいなしにしてしまうから
みずから死を選んではいけない

忘れないで
あなたはあなた以外にはいないあなただから
有限なる無限のあなただから
この有限なる無限の世界のなかに
生まれてきたあなただから
あなたという無限を
この有限のなかで歌わねばならない
美しい襞を舞わねばならない

一音のなかに宇宙を奏でようとするのを
人は夢想だというだろうか
わたしがわたしであることで宇宙を歌おうとするのを
馬鹿げたことだと笑うだろうか
しかしわたしはあなたという有限のなかに
たしかに無限をみるのだ

わたしという有限な無限と
あなたという有限な無限が
こうして有限なる無限の世界に遊ぶ
ひとときの
けれど永遠ほどに感じられる喜びと苦しみは
無数の襞をもつ折り目を
世界にたしかに創りだしていく
そのあまりに美しい有限なる無限の交響楽

 

「西洋哲学史」レゾナンスII-5

知覚


(2006.12.7)

   物質は存在しない。すくなくとも、観念に与えられるものと
  しては存在しない。もしも観念こそが存在への避けがたい通路
  であって、観念として与えられるもののほかには存在しえない
  とするならば、物質、物体としての実体、事物それ自体はおよ
  そ存在しない。
   それでは、「存在する」とはどういう意味なのだろうか。バ
  ークリーの答えはよく知られている。存在するとは、知覚され
  ていることなのである。(…)
   だれも見ていない樹木は、それでは、存在しないのだろうか。
  だれも聞いていないところで倒れる木は音を立てないのであろ
  いか。(…)
   私が現に世界を知覚しているかぎりで、世界は存在する。世
  界がそのような仕方で存在するかぎり、神もまた存在する。
  (熊野純彦『西洋哲学史/近代から現代へ』岩波新書
   第5章・知識への反逆 より)

だれも見ていないから
盗人はしのびこむ
盗人だけはしっかり見ている
だれも見ることのない絵を描く
画家はずっと見続けている
そして、神はいつも見ている

だれも聞いていないから
「王様の耳はロバの耳」と吐き出すが
自分はちゃんと聞いている
だれも演奏することのない曲を書く
作曲家の心のなかで響いているだけ
そして、神はいつも聞いている
心のなかまで

だれも見ていない樹木を
見ている目があるのか
ときに見えないはずのものを見るのは
その目がわたしのなかで見るからだろうか
だれも聞いていない鳥の歌を
聞いている耳があるのか
ときに聞こえないはずのものを聞くのは
その耳がわたしのなかで聞くからだろうか

わたしがいるからあなたがいる
わたしがいなければあなたはいない
そういったら
あなたはいなくなった
あなたはいないけれど
神はあなたを見せようと
心のなかのあなたは
どんどん大きくなっていく

 

「西洋哲学史」レゾナンスII-6

同一性


(2006.12.9)

   あるものは原因の同一性のゆえに、べつのあるものは関係の
  同一性から、また目的の同一性によって、おなじものであると
  みなされているにすぎない。「人間のこころに帰せられている
  同一性」もおなじである。それもまた、いわば暗黙の約束のゆ
  えに、同一なものと考えられているだけなのである。
  (熊野純彦『西洋哲学史/近代から現代へ』岩波新書
   第6章・経験論の臨界 より)

わたしの食べたこの林檎
あなたの食べたこの林檎
同じフジリンゴだけれど
同じフジリンゴじゃない
わたしの食べたこの林檎
あなたには食べられない
悲しいけれど仕方ないね

この林檎2個と
あの林檎2個は
同じ2個なのか
食べるわたしは
同じ人のままか
別の2人なのか

昨日歌ったこの曲と
今日歌ったこの曲は
同じ曲だけど別の曲
昨日歌ったわたしと
今日歌ったわたしは
同じ人だけど別の人

ジキルとハイド
同じだけど違う
違うけれど同じ
ジキルは同じ?
ハイドは同じ?

言葉が同じでも
違うものがあり
言葉が違っても
同じものがあり
ああややこしい
ああおもしろい

同一時刻の同一の場所に
別のものは存在できない
では同一の時間とは何か
同一の場所とは何なのか

こうして書いているうちに
わたしは少しずつ変わって
別のバージョンのわたしに
わたしという物語を生きる
わたしという同一性の存在

 

「西洋哲学史」レゾナンスII-7

言語


(2006.12.12)

   ヘルダーにとって、人間であることと言語を有することはほ
  とんど同義であり、意識をもつこととことばを使用することも、
  おなじ水準にぞくしている。「言語の創設は、人間にとって、
  かれが人間であることとおなじくらい、自然的なのである」。
  「意識性Besonnenheit 」と「反省」こそが人間に固有な次元
  であり、また言語にとって不可欠な条件であるからである。
  (熊野純彦『西洋哲学史/近代から現代へ』岩波新書
   第7章・言語論の展開 より)

わたしたちはことばでできている
だからことばをもてないことは
人間であることができないということだ

けれどことばをたくさん使うことが
ことばを生かしことばに生かされることではない
沈黙もまた深いことばであり
沈黙にたえられずことばを乱射することは
むしろことばを殺していることを忘れてはならない

ことばほど伝わるものはない
ことばでなければ伝わらないことがある
ことばほど伝わらないものはない
ことばほどことばを心を裏切るものはない

ことばほどこわいものはない
ことばの刃の鋭さはどんな剣にもまさり
世界をかぎりなく切り刻んでいく
ことばほど悲しいものはない
ことばのつくりだす世界はときとして
死をも選ばせるほどの物語を紡ぎ出す
けれどことばほど美しいものはない
この悲しみを妙なるものへと変容させ
今はまだ見えない永遠をも見せる力をもつ

人間の人間による人間のためのことば
どこからきたのかだれもしらない
やがてどこにゆくのかだれもしらない
ことばことばことば
けれどこれだけは知っている
生きたことばはわたしを生かし
死んだことばは私を腐敗させるということを

わたしはことばである
ことばによってうまれ
そしてことばを生み
ことばとともにある世界で
わたしはわたしである

 

「西洋哲学史」レゾナンスII-8

理性


(2006.12.13)

   最高存在が、じぶんの根拠を自問する。これは、ひどく戦慄
  すべき思考ではないだろうか。理性はみずからに与えられた課
  題を突きすすんで、思考それ自体の底知れない裂け目へと到達
  する。それは「人間の理性にとって、ほんとうの深淵」である。
   問いは、不在の深淵に対して向けられる。思考は、答えのな
  い問いまえで宙づりとなる。深淵とは渓谷のあいまに深く剔ら
  れた、無の淵のことである。理性の深淵のなかで回答のない問
  いかけが反響している。このことこそが、けれども、世界のな
  かにすがたをあらわすことのできないもの、神が不在のままに
  あらわれるかたちであり、世界における神の痕跡なのである。
  (…)
   人間の自由は、すこしも秘密ではない。それは道徳法則の存
  在によって知られる。だが、自由の根拠は探究されえない。そ
  れは認識には与えられない「秘密」であり、人間にとって一箇
  の知の深淵なのである。
  (熊野純彦『西洋哲学史/近代から現代へ』岩波新書
   第8章・理性の深淵へ より)

考えても考えてもたどり着けないところから
まるで私たちとともにいるかのように語りかける
理性という謎に満ちた教師がいる
その語りかけを聞くか聞かぬか
それはまるで音楽を聞くことにも似ていはしないか

さまざまな音楽がありさまざまな聞き方があるが
深淵を垣間見せてくれる音楽やその演奏を
耳をひらき身体を開いて聴き取ることはむずかしい
それを聴き取ることを自由ということもできるだろう

自由は気軽に手に入れることのできるファーストフードではない
それを手に入れるためには、むしろ
「あなたの意志の格率が、つねに同時に
普遍的立法の原理として打倒するように、行為」
しなければならないのだ

理性は見えない聞こえない
理性こそが秘密である
自由を求める意志はどこからやってくるのだろう
自由こそが深淵である

呼び求めるだけでは彼らは訪れてはくれない
彼方の深淵へとみずから歩を進めなければならないのだ
その淵へと至ると境界があり
絶対に越えられないと思えるほどの壁がそびえている

すると壁の彼方からかすかに響いてくる声がある
この胸の奥のどこかから響いてくるようでもあるその声
謎に満ちた声の歌う謎の旋律が
繭のような織物となって私を厳かに包んでゆく

 

 

「西洋哲学史」レゾナンスII-9

自我


(2006.12.15)

   フィヒテの徒として、シェリングは告げる。「自我はいっさ
  いの存在を、すべての実在性をふくんでいる」。「自我はいっ
  さいの実在性をふくんでいるのだから、自我は無限である」。
  シェリングはかくて、フィヒテの超越論的哲学を突きぬけて、
  スピノザ主義へと達してしまう。
   スピノザ主義は、しかし自然哲学そのもののなかで超克され
  ることになるだろう。「自然について哲学するとは、自然をつ
  くり出すことである」。「所産としての自然を私たちは知らな
  い。私たちが自然を知るのは、ただ活動的なものとしてだけで
  ある」。スピノザの「生み出される自然」が切断され、「生み
  出す自然」のみが残されて、自然哲学が超越論的哲学と縫合さ
  れる可能性が生まれる。
   シェリングが固有の哲学的立場として、同一哲学の構想が成
  熟するうちに、スピノザとカントを調停し、自然と精神をふた
  たび統一する必要が生じる。同一哲学の課題はいわば、いっさ
  いが自我であることを示す客観性の体系(自然哲学)と、自我
  がすべてであることをあかす主観性の体系(超越論的哲学)と
  を統合することだった。自我と自然の、主観と客観の「絶対的
  な同一性」がその統一の原理となる。
  (熊野純彦『西洋哲学史/近代から現代へ』岩波新書
   第9章・自我のゆくえ より)

すべてが私であるならば
大地を汚すのは自分を汚すことだ
すべてが私であるならば
動物を実験に使うのは自分を実験に使うことだ
すべてが私であるならば
だれかを見下すのは自分を見下すことだ
すべてが私であるならば
自死を選ぶのは
クレタ人は嘘つきであるとクレタ人が言うようなものだ
その安易な死はいつまでもみずからを矛盾の淵に追い込んでしまう

すべてが私であるならば
種を育て花を咲かせ実らせるのは
自分を成熟させていくことだ
すべてが私であるならば
地球のどこかでブリージングする鯨を思うのは
私自身が豊かな遊びに満たされることだ
すべてが私であるならば
人を真に愛するのは
たとえ報いられなくとも
愛に満たされるということだ
すべてが私であるならば
自死を思いとどまるのは
みずからの矛盾を越える勇気を持つということだ

すべてが私であるならば
すべての祈りは必ず届けられるということだ
祈りははるか宇宙を経めぐりながら
みずからを祝福してやまないということだ

 

 

「西洋哲学史」レゾナンスII-10

他者


(2006.12.20)

  他者の存在によって私はようやく私となる。他者との関係が愛
  であるならば、私はじぶんの存在を、他者のうちに有している。
  自己意識はもうひとつの自己意識のうちでじぶんを失う。自己
  意識は他方、他者の自己意識のうちでこそ自己を肯定する。愛
  する者の存在が、私を肯定するからである。こうしてふたつの
  「自己意識は、たがいに承認していることを、相互に承認して
  いる」。知覚を問題とする場面で、ヘーゲルがすでに確認して
  いたように、存在者は「自己に対してあり、また他なるものに
  対して」存在する。この両者は「二重のあいことなる存在」の
  しかたである。とはいえ対自と対他は、「他方また一である」。
  (熊野純彦『西洋哲学史/近代から現代へ』岩波新書
   第10章・同一性と差異 より)

「I Want You あなたがほしい」
「Without You あなたなしでは」
「あなた」を歌う愛の歌は
「あなた」こそが「私を肯定する」ことを歌っている

私はどこまで私なのだろう
私は私だけで私であることはできない
私は私に「私である」と語りかけ
私はあなたに「あなた」と呼びかける
そしてそのふたつは同じ歌

「あなたがここにいる」
私は「あなた」にそう言ってほしい
たぶん「あなた」も
私にそう言ってほしいのだ
そうでなければ
私もあなたも
「いない」ことになってしまうから

世界の底には
私があなたを歌い
あなたが私を歌わずにはいられない
そんな悲しみの河が流れている
そしてその河は
さまざまな争いや矛盾を呑み込みながら
やがて愛の海へと流れ込んでゆくのだ

 

「西洋哲学史」レゾナンスII-11

貨幣


(2006.12.21)

   マルクスは自問して、自答する。「現世の神とはなにか?
  貨幣である」。「類の関係さえ、男女の関係その他ですら、商
  売の対象となる!女性が売買されるのである!」神と売春のメ
  タファーは、以後もマルクスの近代批判に繰り返しすがたをあ
  らわす。あたかも、国家にとって神が不可避であり、資本にあ
  って身体の商品化が避けがたいかのようにである。
   「貨幣」とは「一般的な商品」である。つまり「一般的な売
  春、あるいはその手段である」。貨幣としての金が、かくて
  「奴隷から主人となる」。それは「諸商品の神」となる。ーー
  貨幣は、商品の神であることで現世の神となる。天上の神は、
  地上では卑賤な姿であらわれるのである。
  (熊野純彦『西洋哲学史/近代から現代へ』岩波新書
   第11章・批判知の起源 より)

買い物ブギの
「これなんぼ?」
今や何でも買えます
何でも売ります
だから金のためにあくせく
金さえあれば何でも買える

金でモノが買える!
そこで何でも買えるようにするために
モノの領域をどんどん増やしていく
なんでもモノにしてしまえば
金と交換できるようになる
金もモノにすれば金で買える
見えない金が見えないところでふえていく

そして今では
遺伝子も買える
臓器も買える
これなんぼ?
命は大切だから
買って済むものなら
なにがなんでも買う
これなんぼ?
心も買えるようにするため
心も脳にしてしまう
これなんぼ?
これなんぼ?というわての脳は
これなんぼ?

 

 

「西洋哲学史」レゾナンスII-12

個数


(2006.12.22)

   「いくつWieviel?」という問いに対して与えられる答えが
  「基数Anzahl」といわれる。言語的にいえば基数は数形容詞と
  してもあらわれるから、一見、基数は色とおなじように対象の
  性質を示す概念であるかに見える。だが、葉の緑について語る
  のと千枚の葉について語るのとは、まったくちがうことがらな
  のではないだろうか。(…)
  単位はたがいにひとしいものでなければならない一方、相互に
  区別されなければならない。前者でなければ単位は一であるあ
  りかたを欠いており、後者でないとき、単位をいくら積み重ね
  ても多とはならないからである。
   部屋のなかに、二個の椅子と二個の机があるとする。その場
  合、二組のセットがあるとも、四個の家具があると語ることも
  できる。「いくつ?」という問いに答えることができるのは、
  なにが数えられるべきかが概念によって決まっている場合であ
  る。「個数言明は概念についての言表をふくむ」。概念が同等
  性を、複数の(複数でありうる)対象が区別を与えるのである。
  (熊野純彦『西洋哲学史/近代から現代へ』岩波新書
   第12章・理念的な次元 より)

数えるとき
ぼくは何を数えているのだろう
ひとつということさえ
ときにわからなくなってしまうのに
ひとつの林檎を二つに切ると
その林檎はまだひとつかなそれともふたつかな

数えるとき
ぼくは別のものも同じにしている
この蜜柑とあの蜜柑の
色や形や大きさや香りの違いに
全然関心なんかないんだという顔をして

数えるとき
数えることで
数字になってしまっているものの最初の顔を
ぼくは思い出すことができるだろうか
数字になったとたんに
足したり引いたりできるようになるものたち
数字にさせられて怨んで化けてでてくるような
そんなものもあったっていいじゃないかと思うのだけれど

数えるとき
そして数えたものを足したり引いたりするときに
足せないものや引けないものがあることを知ったとき
とてもびっくりしたことをぼくは今でも覚えている
単位が違うものはいっしょにはできないのだそうだ
数字になるということは平等になることではなくて
また別の違いのなかに組み込まれてしまうことなのだ
世の中にも性別や国籍や民族やその他たくさんのことで
いっしょにはできないことがたくさんあるように

 

 

「西洋哲学史」レゾナンスII-13

レアリテ


(2006.12.24)

   現実は、たんに生きられている場合には見られることがない。
  ベルクソンが、芸術についてそう語っているように、「イデア
  リスムがこころのうちにあるとき、レアリスムが作品のうちに
  あり、レアリテとの接触を回復する」。イデアリスムとは「生
  のある種の非物質的なありかた」のことであり、「利害から離
  脱すること」である。芸術家は生の現実からはなれることで、
  現実そのものを見る。イデアリテがレアリテを見ることを可能
  にする。一般的にもひとは、精神の深部で眠り夢を見ている記
  憶の次元に降りたってゆくことで、かえってレアリテと触れる。
  個性的な現実を見ることになる。そのように語ることは、「す
  こしもことばの意味を弄することではない」のである。
  (…)
   ひとは、眼で見るのではない。眼をとおして見るのでもない。
  眼というたんなる物質があるにもかかわらず視覚が可能となっ
  っている。あるいは、眼とはたんなに物質であるにもかかわら
  ず、見ることが可能になっているのだ。見ることを可能にして
  いるのは物質ではない。見ようとする生命の跳躍とその強度が、
  物質を突きやぶって、視覚を可能にしている。眼は見ない。見
  ようとする、生命の躍動がものを見る。物質のかなたのレアリ
  テに達するのである。
  (熊野純彦『西洋哲学史/近代から現代へ』岩波新書
   第13章・生命論の成立 より)

現実を見据えなさい!
というひとの現実
だとおもっていることが
スクリーンに映っているとしたら
そこには何が映っているのだろう

スクリーンのなかで演じられる
そのひとが主人公になった物語
ぼくがその世界の登場人物に
なっていなければいいのにと祈るばかりだ
たぶんぼくはその映画ではただの
怠けがちな夢想家にすぎないだろうから

時間のコマが連なりながら
生きて動いているように見える記憶のシアター
現実というシネマはなかなかの役者ぞろいだ
ひとは生の現実がスクリーンに映っていると思い
映画を鑑賞するように記憶を物語化して生きている

ときには諦念のひとが
そこには現実がゆがめられて鏡のように映っているのだ
そう思っていたりすることもあるのだろうが
そのスクリーンに見えるものが
ほんとうは窓なのだ!
ということを知らないでいる

記憶という窓
それを知らない人には
スクリーンか鏡のようにしか見えない不思議の境界
その境界に立ち
眼からスクリーンという幻を追い払うとき
それが窓であることがわかるのだ

はじめは夜汽車の二重写しの窓のように
こちらの世界が向こうの世界であるようにも
見えてくることもあるだろうが
レアリテはたしかにたしかに
その窓の向こうに広大に広がっている

しかし見えてくるものをただ映して見ようとしても
「物質のかなたのレアリテに達する」ための窓の向こうは
いつまでたっても見えてはこないだろう
「見ようとする、生命の躍動がものを見る」のだから

 

 

「西洋哲学史」レゾナンスII-14

超越論的


(2006.12.25)

   フッサールが到達した新たな立場は、「超越論的」なものと
  呼ばれる。その立場、超越論的現象学の定位をしるしづけるも
  のが、「現象学的還元」といわれる操作にほかならない。
  (・・・)
  「真なる存在と認識作用とのあいだの諸関連をあきらかにする
  こと、これが超越論的現象学(あるいは超越論的哲学)の課題
  である」。「超越論的現象学とは、構成する意識の現象学なの
  である」。
   ひとはふつう、人間から独立した世界、意識を超越した対象
  の存在を、自明なものと考えている。このような通常の態度を
  フッサールは「自然的態度」と呼び、そこにふくまれる世界の
  自明性を「一般定立」と名づける。世界が一箇の超越であり、
  その超越の意味が解明されるべきであるとするなら、つまり超
  越論的な態度が可能でなければならないとするならば、このよ
  うな一般的定立が宙づりにされる必要がある。
  (・・・)
   還元によってあかされるのは、世界と世界内部の諸対象が、
  私たちの作用との関係で、現にそのように存在している、その
  ことの消息である。還元を経て、世界は意味として存在する。
  現象学的還元があきらかにするものは、要するに、純粋意識の
  志向性の相関者としての世界、「ノエマ」としての世界にほか
  ならない。
  (熊野純彦『西洋哲学史/近代から現代へ』岩波新書
   第14章・現象の地平へ より)

林檎をおいしく食べたいとおもったら
「自然的態度」に徹することだ
超越論的還元などに
ゆめゆめ心煩わせてはならない
そうでなければ現象学的還元された
林檎の亡霊は知覚された林檎のまわりを
いつまでもいつまでも浮遊し続けることになってしまう
私はその林檎をただ味わいたいだけなのだから

愛したいと思ったら
「自然的態度」に徹することだ
抱きしめているあなたと
私の意味としてのあなたは違うのだ
愛しているという意識とあなたとの関係は
はたしてどのようなものなのだろうか
などとあれこれ逡巡しているうちに
恋する人はあきれてどこかに去ってしまうことになる

しかし私はときに「自然的態度」ではいられなくなる
それが私を生きにくくしているに違いないのだが
世界があるということや
世界がそのように見えていることを
疑ってみたくなったりもするのだ
そしてそこに生まれてくる意味の世界を
何重にも何重にも掘り下げてみたくなるのだ
たとえそれがたまねぎの皮を剥くようなものだったとしても

疑いの砂漠をはるかに越えて
今ここで鳥が深く青い翼を広げ
あなたが私に話しかけている
そのときようやく私は意味の果ての意味とともに
林檎を囓り静かに微笑むことができるのかもしれない

 

 

「西洋哲学史」レゾナンスII-15

有限から無限へ


(2006.12.26)

   存在するものと存在することとの差異が究極的な差異である
  ならば、ひとは、その差異それ自体については語り出すことが
  できない。なにかを語るとは、或るものをなにかとして、べつ
  のあるものとの差異において語ることであるからだ。おなじよ
  うに、言語の限界が同時に思考の限界であり世界の限界である
  なら、限界それ自身を、ふたたびことばによってしるしづける
  ことはできない。ことばでしるしづけられるかぎりでは、その
  境界は、ただ言語と世界の内部からのみ語りだされているから
  である。限界は、ウィトゲンシュタインがそう言っていたよう
  に、「言語の内部で」だけ引かれることができる。『論考』に
  よれば、そして「限界のかなたにあるもの」については語るこ
  とができない。
   「超越」ということばが、もっとも強い意味で使用されるな
  らば、それは存在するいっさいのものとの差異を示すものとな
  るだろう。その場合、存在するものと存在することとの差異を
  超えて、存在一般とそれを超越するものとの差異があることに
  なる。そのような差異について語ることはできない。だが、そ
  れについて思考することは、なお可能なのではないだろうか。
  まさに思考しえないものとして、ひとの「理解」を無限にあふ
  れ出してゆくものとして(レヴィナス『全体性と無限』)、そ
  れでも、わずかに思考することが可能なのではないか。「存在
  の他者」「存在のかなた」をめぐって、思考が紡ぎださねなけ
  ればならない。
  (熊野純彦『西洋哲学史/近代から現代へ』岩波新書
   第15章・語りえぬもの より)

林檎と言葉にすることで
私は林檎そのものから隔てられ
林檎は林檎ではないものではないものとなってしまう

時間について語らないとき
私はそれを知っているにもかかわらず
語ろうとすると
知らないなにかになってしまうように

美しいと言えば
美しさに呪縛され
そこに醜さが生まれる
善と言えば
善に呪縛され
そこに悪が生まれる

美と醜の彼方には
そして善と悪の彼方には
いったい何があるのだろう
しかしそう問うことだけでは
その彼方へと超えることはできないだろう

言語と思考の彼方へと向かうためには
摩訶迦葉の微笑が必要だ
しかし言語と思考を遠ざけたところでは
その微笑が浮かぶことはないだろう

世界のなかで世界を超えるためには
林檎の呪縛を解かなければならない
時間のなかで時間を超えるために
時間の呪縛を解かなければならないように

そして私は林檎を囓り
時間とともに老いながら
ときに微笑むことを学んでいく
限界のなかで無限を夢み
夢と現との境を踏み越えながら