「西洋哲学史」レゾナンス


1 アルケー
2 ハルモニア
3 ある
4 空虚と運動
5 フィロ
6 イデア
7 自然のロゴス
8 永遠
9 懐疑
10 一者
11 時間
12 存在
13 非存在
14 証明
15 絶対

 

「西洋哲学史」レゾナンス1

アルケー


(2006.10.22)

   タレスが偉大なのは、世界のすべての原理はなにかという、
  かつてない問いを発したこと自体にある。…
   タレスは、移ろってゆくいっさいを超えて、滅びないものの
  影を見ていた。そのことでタレスは、自然学ではなく哲学の祖
  となったのである。
   ひとは息を吸い、息を吐いて生きている。ひとが繰り返す呼
  吸は、大地と天空を循環する大気のめぐりの、ほんのちいさな
  ひとこまにすぎない。ひとは、世界を循環させ、反復させるそ
  れとおなじアルケーによって生きながら、世界総体の反復と循
  環は、ひとの世の移ろいを遙かに超えて、滅びることがない。
   そうした世界は、いったいいつ生まれ、どのように生成し、
  現在にいたっているのだろう。世界を世界としてなりたたせて
  いる原理とはなんなのだろうか。自然と世界は、どこから到来
  し、どこへと立ち去ろうとしているのか。こうした問いは、世
  界のなかで紡がれている、この生それ自体にも向かいうるもの
  となるだろう。この私はどこから来て、どこへと向かっている
  のだろうか。
  (熊野純彦『西洋哲学史』岩波新書1007「第1章・哲学の始原へ」より)

行く河の水は絶えずして
うつろうものはとどまることなく
流れ流れ流れゆき
その行方を見さだめる間もないままに
私は歩き歩き歩き続け
そしてやがて天を仰ぐ

  この世のすべてははかない
  だとしたらこの世を生きる甲斐はどこに
  うつろいゆくものそのものが真実であるとしても
  そのうつろいを生じさせているものはいったい… 

常なるものなきに見える
この世界をめぐるもの
そのめぐりの源にあるもののことを
私は問わねばならぬ

  そこにあるのはめぐり
  往くものもまた還りくる
  そのめぐりは滅びを超えるのか
  それが永遠の影のようなものであるとしても
  そこにあるのはただのうつろいではない

めぐりとともにありながら
めぐりを超えるものを
私は見さだめねばならない

  生まれ生まれ生まれ生まれ
  死に死に死に死ぬ
  たとえそのめぐりが
  真実であるとしても
  そのめぐりの生まれくる源こそが
  うつろう生のなかの
  うつろう死のなかの
  真実の種子なのではないか

世界はめぐりの源から出来した
であるならば私もまた
そこから出来してきたはず
「それ」を問うこと
アルケーを探し
やがてめぐりの果てにあるものに
辿りつかねばならない
その果てしない
来し方来るべき果てへの問いのはじまり

  めぐりめぐる世の営み
  明滅する因果交流電灯の映しだす
  スクリーンで演じられるあらゆる物語
  アルケーを問いはじめる私は
  影絵のペルソナを演じ
  涙をながし大声で笑いながらも
  私という影絵の光の源を思い
  うつろいめぐる力の輪を超えて
  生じることも滅することもないものへと向かう  

 

「西洋哲学史」レゾナンス2

ハルモニア


(2006.10.24)

   ロゴスとはつまり、相反するもの、対立するものの両立であ
  り調和にほかならない。「生と死、覚醒と睡眠、若年と老年は、
  おなじひとつのものとして私たちのうちに宿っている。このも
  のが転じて、かのものとなり、かのものが転じて、このものと
  なるからである」。生きている者が死に、眠っているものだけ
  が やがて目ざめ、かつて若かったもののみが老年になる。「上
  り 道と下り道は、ひとつのおなじものである」。見る方向がこ
  と なるだけだ。海は育み、殺す。それは魚にいのちをもたらし、
  人間を殺傷する。だから、「海はもっとも清浄で、かつもっと
  も汚されたものである。」。ーー「戦いが共通なものであり、
  常道は戦いであって、いっさいは争いと負い目にしたがって生
  じることを知らなければならない」とする、有名な箴言もまた
  おなじ発想の延長上にあるものであろう。ここでも、ある調和
  と、それに相反するものが語りだされている。ちょうど燃えあ
  がる火が消えさろうとする炎と同一であるような、ことの消息
  が語られている。せめぎあいこそがロゴスである。「戦いは万
  物の父であり、王である」。まさに、そう語られるとおりなの
  である。
   ヘラクレイトスは、ひとつの、おなじものについて語ってい
  た。それはロゴスであり、なにほどか神的なものである。ひと
  つの、おなじものは、また「ひとつのもの、ひとりそれのみが
  智であるもの」とも言われる。
  (熊野純彦『西洋哲学史』岩波新書「第2章・ハルモニアへ」より)

弦を調和させるためには
弛めすぎても張りすぎてもいけないが
弦が弦であるためにはその両端を必要とするように
生と死、覚醒と睡眠、若年と老年は
相反するように見えるにもかかわらず
互いに調和の礎となってその音を奏でている

私たちはあるものを求める反面
その対極にあるものを拒むことを常とする

生命に執着し
死を恐れ拒む
いつまでも若くあろうとして
老いを遅らせようとする
病から学ぼうとしないがゆえに
健康であることからも学ぶことがない

世界が音楽であるとすれば
演奏家は弦の両端を必要とし
その張り具合に気を配るだろう

そして作曲家はさまざまなせめぎあいを
調和に導くべく耳をすませるだろう
悲しみの底に潜む静かな瞑想や
歓喜の裏に映る怒りの棘や
苦悶の果てに見え隠れする哄笑や
快楽を疾駆させる痛みへの恐れに

 

「西洋哲学史」レゾナンス3

ある


(2006.10.24)

   存在者があり、世界がある。無ではなく、なぜか、存在者が
  存在している。さまざまに存在するものがあり、それらはひと
  しく存在しているといわれる。おのおのの存在者はそれぞれに
  あるかぎりでは、すべて存在と呼ばれる。その意味では、むし
  ろ、それが存在であるもの、存在自体だけがある。パルメニデ
  スを捕らえたのは、このひどく単純で、けれども深い驚きの経
  験だったのではないだろうか。
  (熊野純彦『西洋哲学史』岩波新書「第3章・存在の思考へ」より)

ある
あるものがある
では、あらぬものはあるか

いまここにあるものはあるが
あらぬものはいまここにはない
では、あらぬものはどこにあるか

あらぬものといえるものは
どこかにあるかもしれぬ
あらぬものとさえいえぬものは
どこかにあるとはいえぬ

ところで
なぜあるものはあるか
あるものはいつからあるか
あるものはいつまであるか

あるものはある
うまれもなくなりもしない
そうでなければあるとはいえぬ

しかし、あるものがいつも
いまあるようにあるとはかぎらぬ
ゆめのむこうからきて
ゆめのむこうへかえってゆくかもしれぬ

ある
ときにきえそうなまでにかるく
ときにとてつもなくおもい
ふしぎのくにのある

 

「西洋哲学史」レゾナンス4

空虚と運動


(2006.10.24)

   運動のためには、「空虚」(ケネオン)の存在が必要である。
  原子は存在する。それは「あるもの」(ト・オン)である。け
  れども、「空虚」(ト・ケノン)もまた存在する。「あらぬも
  の」(ト・メー・オン)もまた、あるものにおとらず存在する。
  ーー第一にあるとあらぬとの「差異」(ディアフォラ)がある。
  差異が存在する以上、あるもあらぬもある。あらぬものにおけ
  るあるものの運動が、現象と感覚における差異を算出する。
  (熊野純彦『西洋哲学史』岩波新書「第4章・四大と原子論」より)

「一切は空である」といってみる
すると、不思議に世界は運動し始める
花は咲き、鳥は飛翔し、魚は泳ぐ
あるをこえることで変化することができるから

「わたしはここにいる」といってみる
すると、ここにいるわたしと
「わたしはここにいる」というわたしのあいだに
奇妙な友情が生まれる
誤解をその種としながらも

「あなたがいる」といってみる
すると、あなたとわたしのあいだに風が吹き
あなたでないわたしは頬を赤らめる
わたしはあなたでないことができるから

 

「西洋哲学史」レゾナンス5

フィロ


(2006.10.25)

   ソクラテスは「知らないと思っている」と語ったのであって、
  「知らないことを知っている」と言ったのではない。プラント
  ンもまたそうつたえてはいない。プラトンはむしろべつの対話
  篇で、「知らないことがらについては、知らないと知ることが
  可能であるか」という問いを立て、否定的に答えている。
  (…)
   無知の知という知のかたちをみとめるならば、ソクラテスは
  やはり「知者」(ソフォス)であることになるからだ。知者で
  あるのは、たとえばプロタゴラスであって、それを自称する者
  たちこそがソフィストであった。ソクラテスは知者ではない。
  あくまで「知を愛し、もとめる者」(フィロ・ソフォス)であ
  る。この一点で、同時代人の目にはソフィストそのものと映っ
  ていたであろうソクラテスが、ソフィストから区別される。ソ
  クラテスはソフィストではない。だから、ソフォス(知者)で
  もない。フィロソフォス(哲学者)なのである。
  (熊野純彦『西洋哲学史』岩波新書「第5章・知者と愛知者」より)

わたしは知らない
ただ知らないかもしれないと
気づいているだけ

わたしは知っているという人が
ほんとうに知っているのかを知りたい
だから問いをかさねていく

あなたはそれをほんとうに知っているのか
あなたがいうそのことを前提にすればこうなるが
そうするとここで矛盾が起こらないか
であればあなたはそれを知っていると言えるのか

知を愛し求める人は
知者を混乱させる
コスモスだとおもっていたもをカオスに変える
愛の人が
愛欲の人を混乱させるかもしれないように

深い情の人は
情におぼれる人を包み込み救い出せるか
真に怒る人は
怒りに我を忘れる人の怒りの炎を消し止められるか
知を愛し求める人は
知を誇る人に
知を愛することに気づかせられるか

世界は困難を抱えている
情におぼれ
怒りに我を忘れ
知を誇る

愛し求める人は
真に苦しむことができる人なのかもしれない
おそらくひとりきりで
ゆえに神とともに

 

「西洋哲学史」レゾナンス6

イデア


(2006.10.28)

   ひとは通常、感覚に与えられるものを追い求めて、真に存在
  するもの、イデアにめざめることがない。人間は、洞窟に囚わ
  れた囚人のようなものである。ただとおり過ぎるものだけを、
  ほんとうに存在しているものと思いこむ。囚人たちが「真に在
  るとみとめるのは、ただの「影」にすぎない。
   洞窟に囚われながら、それを知らず、洞窟が世界であると考
  えている者にとっては、洞窟を離れることは死を意味する。洞
  窟を出て、光そのものを見ることは、感覚にとらわれた身体を
  はなれることにほかならない。その意味で、イデアを愛し求め
  るものは日々「死の訓練」を積んでいることにもなるだろう。
  ーーある意味では、美しいものへの恋もおなじである。美しい
  人への恋は、つねに「苛烈で苦しく」、「恋する者は、すでに
  死者である」からである。
  (熊野純彦『西洋哲学史』岩波新書「第6章・イデアと世界」より)

囚われ人の生きるこの世界は、
「誰を犠牲にするかという、
終わりのない日々の選択である。」*

私たちは光を求める旅を続け、
目の前にひろがる犠牲の連鎖に
しだいに無頓着になってしまう。

犠牲という言葉を
過大に感傷でとらえる必要はないだろうが、
影と影の戦闘のなかではなく
光の大きな循環のなかで
犠牲の意味を見据えることができればと願う。

光を求める者は
日々「死の訓練」を積むが、
影を生きる私たちは日々
「生の訓練」を事としなければならない。
「死の訓練」と「生の訓練」とが
いつか同じ場所で出会うことができると信じ。

私たちは見えないイデアを乞いながら
見えるものたちのはかなさのなかにも
悲しく踊る影たちの真実を慕う。
天空より降り来たるイデアと
大地から湧出するイデアが
逆接的に出会うであろう
この囚われ人たちの洞窟という
大いなる場所で。

*星野道夫の言葉から

 

「西洋哲学史」レゾナンス7

自然のロゴス


(2006.10.31)

   「すべての人間は、生まれつき知ることを欲する。その証拠
  は、感覚への愛好である。感覚はその効用をぬきにして、すで
  に感覚することそれ自体のゆえに愛好されるからである」。
  『形而上学』の冒頭でアリストテレスはそう述べるけれども、
  だれより知ることを欲していたのは、「万学の父」とのちに呼
  ばれることになる、アリストテレスそのひとであったように思
  われる。アリストテレスがなによりも力を入れて探求したのが
  生物学的な事実とその細部であったことも、よく知られている
  ところである。アリストテレスは、じっさい、どのような動物
  であっても観察してみれば、「造化の自然」は「生来の哲学者」
  に「いいしれぬ愉しみを与えてくれる」と書いていた。数学的
  なもののうちにおそらくはイデアの原型を見ていた、その師プ
  ラトンとアリストテレスのあいだには、知的な嗜好においても、
  あきらかな隔たりがある。
  (熊野純彦『西洋哲学史』岩波新書「第7章・自然のロゴス」より)

ぼくがこうしている同じ時間に
ザトウクジラはアラスカの海の上に
大きく飛びあがっているかもしれない

ぼくがこうしている同じ時間に
鍾乳石はほんのわずかだけれど
確実にその成長を続けていることだろう

ぼくがこうしている同じ時間に
この地球、この宇宙で
無限のかたちが無限のダンスを続けている

だから君よ
退屈などありえないのだよ
君が知りたいと思うだけで
宇宙の無限のダンスに気づくことができるのだから

カワセミのくちばしだって
輝安鉱の結晶だって
金ボタルの光だって
ぼくが知り尽くすことができるほどには
あまりにも豊かでスリリングすぎる

ぼくがこうしている同じ時間に
君は携帯電話でメールを打っているかもしれないけれど
君の目が君の指がふれることのできるだろう宇宙は
ほんとうはミクロからマクロまで無限の奇跡にふれている

そのことに気づくか気づかないか
それだけで造化の自然は無限の神にも
またつまらない退屈しのぎにもなることができる

 

「西洋哲学史」レゾナンス8

永遠


(2006.11.2)

     あたかも、きみがすでに死者であるかのように、現在の
     瞬間が、きみの生の最期の瞬間であるかのように、自然
     にしたがって生きよ。

   現在こそが永遠である。現在が永遠であるならば、「もっと
  も長い生も、もっとも短い生も等価である」。みずからは戦場
  に生きざるをえなかった哲人皇帝が、おそらくはじぶんのため
  だけに書きつけたこのことばは、深い諦念とふしぎな慰めに満
  ちている。
  (熊野純彦『西洋哲学史』岩波新書「第8章・生と死の技法」より)

戦いを続けねばならない人の永遠は
青い鳥のような永遠ではないだろう
それはどこにもない場所であってはならず
その戦いのなかにこそ見出されねばならないだろう

しかしそれは怒りのなかにではなく
もちろん笑いのなかであるはずもなく
どこか悲しみのなかにひろがる湖に
ときに音もなく浮かぶ波紋のような永遠かもしれない

その手でふれることもできそうな永遠の流れのなか
あたかもきみはすでに死者であるかのように
きみの生の最期の瞬間であるかのように
静かに微笑むこともできるのだろう

時の流れのなかでしか聴くことのできない音楽が
その無常のなかでこそ!永遠を奏で
それを聴き取ることができるという矛盾
しかし、私たちがときに
たしかに 永遠を聴き取ることができる!という事実は
私たちのなかに永遠の種があるということにはならないか
見ることができるということは
自分のなかに太陽があるということであるように

私たちは永遠を故郷とし
そこを去った存在ではないのだろうか
だとすれば、再び永遠へと帰ってゆくことこそ
自然にしたがって生きるということではないだろうか

いや私たちは一度たりとも永遠を離れたことはない!のかもしれない
永遠のなかにあって永遠を忘れ
ときにそれを思い出す
その矛盾に満ちた至福を花のように咲かせることをこそ望み
あえてこうして遠く険しくも見える道を歩んでいるのかもしれない
そして戦い続けることさえも選びとりながら

 

「西洋哲学史」レゾナンス9

懐疑


(2006.11.4)

   概略的にいえば、判断中止はさまざまなことがらを対置する
  ことでおこる。この対置は、あらわれるものどうし、あるいは
  思考されるものどうし、あるいはまた、あらわれるものと思考
  されるものとのあいだでおこなわれる。あらわれるものどうし
  の対置とはたとえば、「同じ塔が、遠くからは円いものにあら
  われるのに対して、近くでは四角いものとしてあらわれる」と
  言われるような場合である。
  (セクストス・エンペイリコス『ピュロン主義哲学の概要』
   第一巻 三一節 ー 三二節)
   (熊野純彦『西洋哲学史』岩波新書「第9章・古代の懐疑論」より)

あなたが見ていると思っているものは
わたしが見ていると思っているものとは
まるで別のものなのかもしれない
どちらがほんとうかわからないのだ

どちらもほんとうかもしれず
どちらもまちがっているかもしれず
あなたとわたしのすれ違いは
そうしてどんどん大きくなっているのかもしれない

だからといって
わたしが自分は何を見ているのかわからないといい
あなたも同じようにいうとしても
あなたとわたしが同じことを考えていると
どうやったらたしかめられるのだろうか

あなたは考え
わたしは考える
同じことを考えているのか
それともそうではないのか
おなじものを見て同じように考えているのか
おなじものを見て別のことを考えているのか
別のものを見て同じように考えているのか
別のものを見て別のことを考えているのか

わたしは考えるからわたしは存在する、といえるほど
わたしというのはたしかな存在でもなさそうで
あなたもそれはおそらく同じで
(とはいっても同じかどうかはじっさいのところわからないが)
しかしそうやってわたしとあなたが
だんだんにわけがわからなくなっていくのは悲しく
だからわたしは少しだけ肩をすくめ戯けながら
でもせいいっぱいの真実を込めてこういうのだ
わたしはあなたを愛している
愛はすべてをこえるというじゃないかと

 

「西洋哲学史」レゾナンス10

一者


(2006.11.5)

   一者は、太陽がすべてのものを照らすように、万物にあふれ
  出る。大木のいのちが枝の一本一本にいきわたって、なおひと
  つのいのちであるように、絶えず水が湧出しながら、ひとつの
  水源でありつづける、山深く、静謐な泉がそうであるように、
  一者は万物であり、万物は一者から生じる。プロティノスの世
  界が「流出emanatio」によって成立するとされる理由がここ
  にある。たましいは、かのもの、つまり一者を目ざすことで、
  「存在を超越したかなた」にいたらなければならない。たまし
  いは、そのとき「知性的な光に満ちあふれて」、自身が「光そ
  のもの」となる。自己は、「そのときむしろ神である」。ここ
  で説かれているのはやはり「脱我(エクスタシス)」であり、
  「神秘的一致unio mystica」であることになるだろう。
   存在を超えた一者は存在するはたらきそのものであり、存在
  のはたらきは自己以外のもののすべてを生み出す産出のはたら
  きである。一者はひとつのものであり、第一の原因であり、善
  である。それは、たしかに、ギリシアの思考が生んだ、もっと
  も美しい直観のひとつであろう。
    (熊野純彦『西洋哲学史』岩波新書「第10章・一者の思考へ」より)

ひとつだけのものは
ひとつだとさえいえないだろう
わたしだけしかいなければ
あなたにわたしということもできないように

神が神となるのは
神がみずからであろうとし
それを見ようとしたときなのだろう
太陽はその照らすものをもたなければ
太陽であるとはいえないように

すべては神であり
万物は神から生じた
一者であるものが一者となったときに
万物は湧き出し光は放たれた
そしてわたしは水源より流れ出し大海に至り
再び水源に向かおうとする
魚が再び河を遡り産卵するための衝動をもつように

なぜ星はめぐり季節はめぐり
人は世界をめぐりやまないのだろう
その衝動の謎の前で
わたしは耳をすませてみる
あらゆる音霊が響き始め
そこから放たれてくる源の虚空で
神の爪弾く弦のふるえを聴きとるために

 

「西洋哲学史」レゾナンス11

時間


(2006.11.6)

   アウグスティヌスは、こう書いている。「ではいったい、時
  間とはなんなのだろうか。だれも私にたずねないときには、私
  は知っている。たずねられて説明しようとすると、知らないの
  である。」過去は過ぎ去って、いまでは存在しない。未来は、
  かなたにあって、なお存在しない。現在はいつまでも流れ去っ
  てしまい、ほとんど存在しない。こう答えることができるだろ
  うか。
  (…)
   アウグスティヌスにとって問題であったのは、過去、現在、
  未来の、時間の三次元を有するかぎり、「わたしの生は分散で
  ある」ことである。生は、「ためいきのうちに」過ぎ去ってし
  まう。「わたしは、秩序を知らない時間のうちに分散している」。
  ーー分散し、過ぎ去り、現在において散り散りであるような存
  在が、自分自身によって支えられているはずがない。私の存在
  はむしろ神によって支えられている。神の永遠のうちでは、か
  ぎりある生も過ぎ去らない。「永遠において過ぎ去るものはな
  にもなく、全体が現在にある」からである。
  (熊野純彦『西洋哲学史』岩波新書「第11章・神という真理」より)

時間にあいだがなければいいのに
そうすれば時はいつも永遠のまま
私はそのまま永遠を生きることができる

時間のあいだには
辛すぎる思い出も
甘い思い出も
崩れ落ちそうな不安も
どきどきする期待も
ためいきとともに
みんな入りこんでいて
わたしはその場所で
ときにうずくまったまま動けなくなる

時間とはなんなのか
そう思うと
私は時間のあいだで途方に暮れてしまうのだ
過ぎ去ったものといまだ訪れていないものとのあいだで

けれどためいきのない永遠のなかに
あなたはいない
あなたがいるということは
あいだを流れる川をもつということだ
私は船を漕ぎ出す
あなたに会うために
永遠からはなれて
そしてためいきとともに

 

「西洋哲学史」レゾナンス12

存在


(2006.11.7)

     存在と存在するものとはことなっている。というのも、
     存在 そのものは、いまだ存在していないけれども、存在
     するもの は、存在の形相を受容するときに存在し、存立
     するからである。
  (…)
   この存在としての存在、存在すること自体は、「いまだ存在
  していない」。存在自身は、存在を分有するもの、存在するも
  の、存在者とおなじしかたで「存在する」わけではないからだ。
  ーーここにはたしかに差異がある。それはしかし、存在論的な
  差異というよりも、存在ー神ー論的な差異、神学的な差異であ
  る。
  (熊野純彦『西洋哲学史』岩波新書「第12章・一、善、永遠」より
   *孫引用部分はボエティウス「デ・ヘブドマディプス」より)

私は夢見られているのではないか
では私を夢みているのはだれだろう
胡蝶の夢の蝶だとしても
その蝶はどこから飛来してきたのだろう

無からつくられたのだという神学を説くとしても
無とはいったいなんだろうと考えはじめるともういけない
無はあるのかないのかというように
言葉の遊びなのか真摯な問いなのかわからなくなってくる

我は我はあるである
偶像をつくってはいけない
という神がたとえ永遠のあるであるとしても
こうしてさまざまに存在しているものたちは
永遠でないがゆえにあるのかもしれない
行く河の流れも
猫のあくびも
お昼にかじったパンも
あなたとかわしたことばも

夢見ている私と
夢見られている私と
いったいどこで目覚めるのか
目覚めるのはほんとうはだれなのか
それともずっと目覚めないでいるのか
存在は夢のはるか向こうで永遠とともにある

 

「西洋哲学史」レゾナンス13

非存在


(2006.11.8)

   『ペリフュセイオン』は全巻からなる。創造し創造されない
  自然については第一巻で、創造され創造する自然は第二巻で、
  創造され創造しない自然は第三巻で論じられたうえで、第四巻
  と第五巻が、創造せず創造されない存在をあつかう構成となっ
  ている。偽ディオニシウス文書でいうなら、第一巻から第三巻
  は、神から発するイデアを経て被造物にいたる肯定神学あるい
  は下りの道(カタファティケー)に、四巻と五巻は、神の痕跡
  である世界からもういちど創造者へと回帰する否定神学もしく
  は上りの道にあることになる。
   肯定的な道にあっては、神は存在し、真理であり本質である
  と語られる。(…)
   存在を超えた神のありかたは「無」ともいわれる。神につい
  ては、どのようなカテゴリーもほんらいの意味では当てはまら
  ず、上りの語り(アポファティケー)にあってはそうした述語
  づけのいっさいが否定されてゆくことになるからである。だが、
  神が非存在であると語られるとき、神は「その語りがたい卓越
  性と無限性のゆえに」いみじくもそう語られるのだ。神が無で
  あると言われるのは、神がむしろ「存在以上のもの」であるか
  らである。
  (熊野純彦『西洋哲学史』岩波新書「第13章・神性への道程」より
   *『ペリフュセイオン』はエリウゲナの主著)

無限から有限への道は下り道
無限のことをまるで覚えていないのは
あまりに忘れっぽすぎるからなのか
それとも無限に覚えることに疲れたからなのか
昨日会った人の名前さえ思い出すことができないでいる
ましてぼくがいまのぼくになる前の世界のことなど
覚えているはずもない

有限から無限への道は上り道
有限が有限を否定しなければ
無限へは帰還することができないのだろう

ぼくがぼくであることを遡っていけば
ぼくがぼくでなくなる坂がきっとあって
そこでぼくは忘れていた名前を
たくさん思い出すこともできるのだろうか

思い出すことのほうがどんどん増えていって
今ぼくがぼくになっている記憶なんて
どこに行ってしまうかわかりやしない
ぼくの大好きな人のことだって
とても全部聴くことなんてできないほどたくさんある
ぼくの好きなバッハの音楽だって
無限の前ではあまりにちっぽけで…

でもいつかまた
道は下り始めて
ぼくはまた別のぼくの顔をして
いろんな大好きなものができるんだろうな
大嫌いなものもたくさんできるだろうけど

 

「西洋哲学史」レゾナンス14

証明


(2006.11.9)

   「神が存在することは、五つの道によって証明される」。
   (…)
   第一の証明は、運動による証明と呼ばれる。(…)
   第二の証明は、「始動因」による証明である。(…)
   第三の証明は、必然性による証明にほかならない。(…)
   第四の道は、存在の秩序と、完全性の度合いによる証明であ
  る。(…)
   第五の道は、「目的因」によるもので、目的論的な証明と呼
  ばれうるものにほかならない。
  (熊野純彦『西洋哲学史』岩波新書「第14章・哲学と神学と」より
   *トマス・アクィナスによる神の存在証明)

生きている証がほしいと
懸命に生きようとするひとがいれば
生きている証がないといい
死を選ぶ人もいる

人は証を求めて生きているのか
証とはいったいなんなのだろう

生きている証とは
私がここにいるということを
証明するということなのだろうか

証明すること
証明できないこと
その違いについて考えようとすると
私は途方に暮れる
私が存在することを証明することが
はたしてできるのだろうか

神が存在するということを証明する
証明できないとしても
それでなにがどう変わるのか

飛行機が飛べるという原理の証明はいまだ完全ではないという
おそらく鳥が翼で飛翔する証明も花が咲く証明もむずかしいだろうが
それでも鳥は飛び花は咲く

証明しようとすることは意味をもたないのか
いやそうではない
人間は人間であるために
証明というプロセスを必要とするのだ
まるでドンキホーテのように
重要なのは証明への情熱なのかもしれないのだから

その途上で不意に
生きている証が訪れることがある
まさに音連れのように
そのときに必要なのは
閉じることができないはずの耳を
ひらくことだけ

 

「西洋哲学史」レゾナンス15

絶対


(2006.11.10)

   人間に対して「流れるいま」である時間のうちで展開するこ
  とがらのすべてが、神にとっては永遠において、つまり「とど
  まる」現在である永遠のいまのなかで現前している。永遠とは
  全体の現前であり、とどまるいまであるとは、そのことであろ
  う。未来の偶然的なことがらも、神にあってはいま現在、直接
  に知られることがらと同様であり、過去のすでに確定された事
  態と同じである。(…)
   オッカムの神は絶対的に自由で創造的な神であり、人間的な
  時間にとっての、過去、現在、未来にわたって、すこしも変わ
  らず偏在する神である。真に自由で創造的な神こそがはじめて
  全知であり、全能でありうる。
  (熊野純彦『西洋哲学史』岩波新書「第15章・神の絶対性へ」より)

ぜったいにふり返ってはいけないのに
オルフェウスもイザナギもふり返ってしまったように
ぜったいはぜったいでなくなるためにあるらしい
そうでなければドラマは進まない

神の自由もひょっとしたら
そのもっとも大きな部分を
ぜったいがぜったいを逃れていくために
使っているのかもしれない
それこそが大いなる自由と創造!

過去、現在、未来というあらわれがあるのも
永遠だけではドラマチックにならないからなのだ
だから十戒が与えられた人も
それをぜったいに守ったりはしないで
戒を快に変えていく歴史を刻んだりもすることになる

きのうのぼくと
いまのぼくと
あしたのぼくと
変わりつづけるのは
ぜったいの神の陰謀かそれとも恩寵か
ランボーが見つけた永遠!のかわりに
ぼくは見つけつづけるのだ
見知らぬ自分の姿を